人は不可逆的に死に向かっている。死を迎えない人間はいない。それだけに、最後に到達する「死」というものは、確固とした揺るぎないものだと思っていた。
しかし、そうでもないらしい。「脳死」を死と同一視してよいとする法律ができた。
いわく、「医師は、次の各号のいずれかに該当する場合には、移植術に使用されるための臓器を、死体(脳死した者の身体を含む、以下同じ。)から摘出することができる」とのこと(改正臓器移植法第6条第1項)。

脳死判定の微妙さも不安だが、意図的に死の線引きを前にずらしたことはどうしようもなく気になる。脳死者は幾時も経ずして死ぬ。その通りなのだろう。が、「回復不能な形で死に瀕した人」と「死んだ人」を同一視してよいものか。
新鮮な形で臓器を手に入れるためだからやむを得ないといい、移植によって救われる命もあるという。やはりその通りなのだろう。しかし冒頭に書いたとおり、人はみな不可逆的に死に向かっているのだ。すべての人は今まさに死につつあると言ってもいい。その死への過程(=生)を、人の都合によって「ここからは死と同じ」と線引きしてしまうのは、私たちの生そのものを脅かす行為ではないのか。

人の生命活動において、脳の役割が過大視されている気もする。こんな感じ。

 脳死を人の死として、動いている心臓を取り出す考えは、臓器の中で脳を「特別視」することを意味します。この「脳の別格化」は現代人の特徴といってよいかもしれません。養老孟司先生が言われるように、「脳中心主義」は近代化、都市化と密接に関連します。近代社会が自然とのふれあいを失っていくなかで、脳以外の臓器は、まさに「脳の手足」になってしまったかのようです。
Dr.中川のがんから死生をみつめる:/14 脳死は人の死か」(毎日jpより)

脳が死ぬことが「死」であるなら、人間というのは脳さえ生きていれば人間と言えるのか(キャプテン・フューチャーのサイモン教授はそうでしたが)。問題は大きく、不安は尽きない。
とりあえず、親族についても自分自身についても、脳死判定自体を拒否したいと思う。