内山節つづき

自分の子どもについて、将来どんな職業に就いたら良いのだろうか、と思うことがある。もちろん成りたいものに成ればいい、というのは大前提。しかし真っ当な仕事って何だ。経団連の言うことやることを見るにつけ、民間企業はことごとくダメなのではないかという気がする。我利我利亡者ばかり。公務員も尊敬される仕事ではなくなったようだし、人命が尊いと思えるようなヒューマニズムは持ち合わせていないし――獣医とか、まともだろうか。人よりはまだ救いがいがありそう。
要するに、社会全体が狂っていると見えるとき、個人がどうやって己を持するかというのは大問題だということです。狂って見えるものとは何か。内山節の言うことを借りれば、限りない拡大生産を目指す資本主義、となる。個々の人間の「明日は今日よりよくなることを願う情熱」が資本主義を支えてきたという。

だがいまではその情熱が失なわれてきている。失なわれたというのが言い過ぎだというのなら、低下してきたと述べておいてもよい。明日は今日よりよくなるという仮説が信じられなくなってきた、ということもあるだろう。だがそれだけではない、明日は今日よりよくなるかどうかが、どうでもよいと感じるような心情が、じわじわ広がってきているのが今日である。
それは私たちが、この社会をつくりだしている根本的なものに挫折感を抱いているからであろう。(中略)
なぜそうなったのか。それは拡大再生産をめざしつづけてつくり上げられた近代―現代社会の体系が巨大なシステムとして暴走し、そのシステムのもとでは人間は無力な存在であり続けることに気づいてきたからだ。明日は今日よりよくなるということを、これまでの延長線上で願いつづける限り、それは人間の無力化のさらなる深まりと引き換えでしか手に入らない。そのことに気づいたとき、私たちは明日は今日よりよくなることへの情熱を低下させた。あるいはそれを失なった。(『怯えの時代』)

今のシステムの中で、そのシステムに沿って働いたり活動したりする限り、その行動はシステムをさらに強化することになり個々の人間の力はますます小さくなる。システムの暴走の前に抵抗する力がますます奪われていく、というところか。ただ暗いから電気をつける、というだけでも原子力発電の存在の正当化につなげられしまうような現実が、目の前にあるわけだ。挫折感があって当たり前だ。このシステムの中ではべつに加害者になりたくなくても自動的に加害者にされるのだから。原発だけではない。原油だって産地の環境を破壊しまくっている。太陽光だって、セルの原料採取地ではどんなもんだか。
内山氏は対策として、ローカルな生き方を訴えている。流通に支配されない買い物。近くのものを買う。温かいお金の使い方(具体的で生活に密着した使い方、ということか)。正直いって、現状に対策などあるのかと思わざるを得ないが、氏の言葉は気持ち良い、リンク切れまであまり時間がないとは思うが、こちらのリンク先もどうぞ(特集ワイド:原発の呪縛・日本よ! 哲学者・内山節さん)。