風立ちぬ

今更ながら宮崎駿監督の最終作、「風立ちぬ」をDVDで見る。とてもいい映画だった。詩のような、夢のような。結核ヒロインとの悲恋の美しさはまずありきたりではあったが(それでも泣けた)、主人公の飛行機設計に精魂を傾ける姿に心を打たれた。創造的な人生を送るということは、エゴイズムと業の深さとを引き受けるということ。その人生は必ずしも周囲を幸福にはしない。主人公の設計した零戦は「一機も帰らなかった」と語られる。だが、主人公に、飛行機の美しさを追求することと、飛行機が戦争に使われることの間の葛藤はない。なくて当然だ。
子どもの頃、児童向けの日本文学全集に、なぜか坂井三郎の伝記「ゼロ戦の勇者」が入っていた。それ自体は面白かったのだが、書中に付された読書の手引には「主人公は本当は平和な世界で飛びたかったと思いますか」みたいなことが書かれており、興ざめした覚えがある。もちろん平和が良い。しかしそのことと、戦いをくぐり抜けたパイロットの話に手に汗握るということとは、また別の話だ。なすべきことをなした人間に対して、後知恵で付け加えることなど何もない。
宮崎監督が仮に主人公の葛藤を描いたとしても、それはどうしても現代からの後知恵にしか見えなかったはずだ。現実の堀越二郎が葛藤したかどうかはまた違う世界の話。作中の主人公は自分の天性に突き動かされるまま、なすべきことをなしたのだ。付け加えることは何もない。
そして主人公の姿は監督自身の姿でもある。ものを作る人間の業の深さを描くことは、監督自身の天性をそのまま観客に提示することだった。その勇気に敬意を表すると同時に、作品への称賛を送りたい。