児童虐待とセクハラをするやつは死ねばいい、とすら思うのだが、問題はそう単純でもない。
児童虐待。最近目に入った東京・目黒の女児のニュースは本当に可哀そうでやり切れない。反省文の内容は親の言ったことを反復したものと思われるにもかかわらず、なぜこれほどに胸を打つのか。おそらくはあの女児が、寝たきりになるほどの虐待に遭いながらも、なお親のことを好きで慕っているからだ。けなげ。酷薄な親だからといって、死んでしまえの一言で話が片付くわけではない。
考えてみれば虐待した親の言い分は、社会の子供に対する圧力をあからさまに反映している。飛行機の中で赤ん坊を泣きやませろとか、保育園がうるさいとか、公園で子供が遊ぶのが気に入らないとか、幼子の親はいつでもそうした圧力にさらされている。それを先鋭化すれば、こうなる。子どもは騒ぐな。きちんとしろ。勉強しろ。手伝え。子供らしくするな。幼子は宝石のように輝いているのに人の社会はそれを曇らせることに執心している。
セクハラ。自分はしていないと思っているところが不幸なことだ。その意味では組織人誰しもが無縁ではない。自覚がなければ罪すべきではない、ということも無いではない。主よ彼らを許したまえ、その為すところを知らざればなり――先日もこのくだりを書いた。しかし問題は別のところにあるのだろう。?本当に知らなかったのか。?知らないことを許される立場だったのか。今時、普通の組織人ならセクハラ教育ぐらい受けているものだ。べからず集、官庁にも企業にもないとは言わせない。それを踏まえてなお性的な冗談を出入りのマスコミにぶつけてヘラヘラしていられる人間の気が知れない。そして責任の重さ、大きさ。人の上に立とうという人間が下卑た冗談で笑っていられるということはグロテスクではないか。
グロテスクなものを拒まなければならない。強いものにへつらうこと、弱いものを虐げること。時に不本意でも膝を折らなければならないことはあるかもしれないが、人生は長い。生きている限り、そこが終着点ではない。日大のアメフット部の学生の姿はよかった。人間は立ち直りうる。グロテスクなものを拒否する方へ。自由を愛し、誇り高く生きなければならない。