今どきアナトール・フランスなんて

アナトール・フランス『神々は渇く』(岩波文庫)を読みました。これも以前に買ったまま放置されていた本。概略以下のような話です。
時はフランス革命期、それもロベスピエールの台頭からテルミドール反動までの恐怖政治期が主な舞台。美貌の青年画家、エヴァリスト・ガムランは、有力な女性の後押しで革命裁判所の陪審員に選ばれる。革命の理想に燃える純情なエヴァリストは、その信念に従ってさまざまな人物──革命に協力的でない多くの人々、妹婿の亡命貴族、自分を陪審員にした女性、隣人の元貴族(フランス自身を思わせるエピキュリアン)などなど──を片っ端から死刑にする。が、革命の挫折の予感に恋人のエロディとも別れ、ついにテルミドール九日のクーデタでギロチンに送られる。恐怖政治から解放された人々は新しい生活を喜び、エロディは新しい恋人を部屋に招じ入れる。
読み始めは意外に読みやすく面白いと感じたものの、次第に書き方の通俗的な部分が鼻につき、それでも最後には、これはこれなりの傑作だろうと思うに至りました。通俗的と感じたのは、登場人物の考えていることに、物語の語り手があまりに自由に立ち入るため。例えば以下のような形。エヴァリストとエロディが別れる、物語のクライマックスの一節です。

──これでわかるだろう、僕は愛を、あらゆる喜びを、人生のあらゆる楽しみを、いや、人生そのものをも、断念しなくてはならないってことが。
 彼は口をつぐんだ。穏やかな享楽を味わうように出来ていたエロディは、もう数日以上も前から、悲劇的な愛人の接吻を受けている間、逸楽的な印象に血なまぐさいイメージを混ぜずにはいられないことにぎょっとさせられていた。彼女は何も答えなかった。その沈黙に、エヴァリストは苦杯をなめる思いをした。

現代文学なら、語り手の視点は一定の点に定められなければならず、エヴァリストとエロディの考えたこと・考えていることが同時に地の文で書かれることはあってはならないのですが、フランスは平気ですね(^^; こういう書き方は、今ではいわゆる通俗小説のものです。利点は何より読みやすいこと、話が分かりやすくなること。欠点は、分かりやす過ぎること、書き手の都合で何でも分かるようになっている、と読者が感じてしまうこと。まあ、昔はこれで良かったということではあるのですが。
登場人物はかなり類型的で、今から見れば説得力は薄いもの。個々の問答にもあまり興味は覚えません。ナイーブな人々の振りかざす正義が大きな悪をなしがちである──などというのも、正に通俗小説的紋切り型でしょう。
しかしそれでも傑作の雰囲気はあります。どこにあるのか。一つのポイントは、舞台である恐怖政治がものすごい勢いで去りゆくものだということでしょう。そこに全霊をささげるエヴァリストの姿は青春小説的な感傷を呼びます。もう一つのポイントはエロディ。去った恋人への感傷をものともせず、エヴァリストを迎えたのと全く同じように新しい恋人と接するその態度は、過ぎ去ってゆくものと対照をなして感興をそそります。
まあ、昔の名作にはやはりそれなりの良さがあるものです。というか、やっぱり文学は昔のものなんでしょうかね。