カンバセイション・ピース

保坂和志カンバセイション・ピース』読了。小説の単行本を買うのが嫌いなもので(文庫本は好きです。最初から文庫で出してくれれば良いのに)、発売以来読みたいと思っていたのですが、近所の図書館のお陰でようやく念願かないました。保坂和志の書くものはだいたい読んでいますし、そのほとんどが好きです──一人の作家の書いたものをほとんどが好きになれる、などというのは滅多にあることではないのですが。もっとも、エッセーにしろ小説にしろほとんど同じようなことばかり書いてあるから、とも言えますが(^^; 保坂和志の小説の多くは、あまり仕事熱心ではないけれどいろいろなことを考える主人公の「私」と、彼を取り巻く人々とのさしたることもない日常が描かれる──というもので、本作でも同様です。主人公が考える「いろいろなこと」には文学的な苦悩や懊悩といったものはおよそ含まれません。だからといって、今夜のおかずや夏物のバーゲンのことを考えているわけでもない。例えば以下のよう。家の二階から外を見ている様子です。

 この部屋から見える外の様子は、風景といえるほどの一般的な面白さはないけれど、それでもやっぱりここに住んで時間が経つにつれて、去年の秋ぐらいから何かしらの面白さが感じられるようになりはじめて、それから私はずうっとここからの眺めを退屈しないで楽しんでいる。
 それはつまり同じ外の様子を毎日眺めつづけた時間か行為の蓄積が自分の中のもうひとつの視線になったということで、その蓄積と言葉を交わすようにして見ているということなのかもしれない。何しろこの家の中でも二階は一階ほどには一日のうちの長い時間を人がいたようなところではなくて、伯父や伯母が二階を普通に生活空間にしたことはなかったし、従姉兄たちにしてもここから私みたいに毎日外を見るなんてことはしていなかったはずだから、私が言葉を交わしている視線はかつてここに実際に住んでいた人たちの視線ではないのだが、こうして私に見えている外の眺めはこの家の二階のここにある眺めであって、それは動かしようがない。
 人が空間の中に生きているかぎり、空間と何らかの折り合いのつけ方をしているわけで、「私」という特定の主語がここからの眺めを見ているのではなくて、私でなくても誰でもいい誰かがここからの眺めを見るという、そういう動作の主語の位置に暫定的にいるのがいまは私なのだという風に感じられることが、空間との折り合いのつけ方のひとつなのかもしれなくて、それなら自分の中に蓄積された時間や行為という考えは少し単純すぎると思った。

無造作にぬき出した部分ではありますが、保坂和志が考える過程(上の場合は「見ること」についての考えの歩み)について丁寧に書く人であることは分かるでしょう。「考えたこと」を小説中の人物に仮託して書くのは普通のやり口ですが、このようにプロセスを丁寧に書く人はあまり見たことがありません。大西巨人神聖喜劇』を読んだときに、雰囲気は全く異なるものの、思考の過程を読者がたどれるように書くという点において共通点を感じましたが、光文社文庫版の解説を保坂和志が書いているのを見たときは「やはり」と思いました。
カンバセイション・ピース』に書かれているのは、このようないろいろの考えの軌跡と、飼っている3匹の猫、妻と姪という家族、友人とその会社の社員2人、これらの人々(猫)の場所である家、それに「私」の愛する横浜ベイスターズ──以上で尽きます。中でも主役と言うべきは「家」。「私」が子供時代を伯父夫婦と四人の従姉兄と過ごした、多くの記憶と痕跡をとどめる家が、「私」とその周囲をことごとにインスパイアし、自分と世界をめぐる思考へと導きます。大事なことなど何も書かれていないようにも見えますが、確たる実感に基づいて書かれた世界は間然するところがありません。すきがない文章、小説です。思わず噴き出しちゃうような文学的修辞的はったりも何もなし。今時の小説として、理想的姿の一つだと思います。まあ、「何も起きなくて面白くない!」という人もいるようですけれど──あ、この作品には横浜ベイスターズについての記述がいくつかあって、その部分は珍しく「感動的」です。例えば以下のよう。えがかれるのは99年の横浜─広島戦です。

金本が打席に立つとレフトスタンドの応援団がラッパでファンファーレを鳴らす。ヤクルトの応援団は稲葉のときにファンファーレを鳴らす。そして横浜ベイスターズでは佐伯のときにファンファーレを鳴らす。
 ファンファーレが鳴りはじめる瞬間は特別バカバカしくて、待っているあいだにうれしくてドキドキする。成績以上にファンに好かれる選手がどの球団にもいるものなのだ。阪神の桧山とか中日の立浪とか。だからといって金本に横浜球場で打ってほしくないのは言うまでもないが、金本の打球はライトフェンスを直撃して、一塁から浅井がホームイン。私はクッションボールを必死に素早く処理して、セカンドに投げる中根の後ろ姿を見ているだけで心打たれた。今年は何と言っても中根だ。中根のことはいくら賞賛しても賞賛しきれない。
「中根はいいな」
 と、前川と私と、そして大峯の三人の声が揃った。

このあたり、プロ野球ファンとしてはよく分かります。試合の勝敗にかかわりなく、ある選手の姿に心打たれるということはけっして珍しいことではなくて、例えば阪神ファンの私にとっては、伊藤敦規が投げる姿はそれだけで手を合わせたくなるものでしたし、去年の日本シリーズでは吉野がさして速くもない球でダイエーの強打者を次々打ち取るさまに、いちいち感じ入ったものです。ついでに言うと、今の阪神ファンにとって以前の桧山の位置にいるのは関本ではないでしょうか。がんばれ関本。
しかしこういう文章を見るに付けても、いまのプロ野球再編だか改革だかはファンのことを分かっていない、あるいは考えていない、と思います。大洋ホエールズ横浜ベイスターズになったり阪急ブレーブスオリックスブルーウェーブになったりと、名称やオーナーや本拠地が変わろうと球団の正統性は損なわれず、ファンは付いていけますが、合併ではすべて台無しなのですよ。選手の皆様にはストライキでも何でもやってくださいな。ファンは、少なくとも選手を見捨てはしないでしょう。オーナーども(とくにあのWで始まる名前の方)には、とうに愛想が尽きておりますけれども。