舞城王太郎「バット男」(承前)

バット男とはバットを抱えて調布の町を出歩く、みすぼらしい男のこと。何かあるとすぐにバットを振り回すが、実際にそのバットが何かに対して振るわれることはなく、むしろ悪ガキどもに奪われてバット男自身が殴られるのが落ちだ。それを「僕」はただ傍観して考える。

バット男はこんな風に色んな馬鹿のストレス発散の道具になって色んな苦しみを味わってこれからも生きていくんだと思い、そしてバット男の手の中で無害なままのバットの無念を思ったが、僕が何を思っても無駄だった。僕にはできることなんて何もなかった。それはもうこの世のシステムの一部だったのだ。バット男の痛みに満ちた人生は、全体の持つストレス発散セクションの歯車の中に組み込まれ、巨大な力で回転させられていた。(中略)
バット男が死ぬまで続くだけでなく、そのバット男が死んでも、また別の「バット男」が現れて続くのだ。それはもう、僕が何度も何度も思うように、すでに完成されてしまったシステムなのだ。ストレスを逃がすための「バット男」コース。でも、僕にはまだ希望があった。かすかでおぼろげではかないながらもなかなか消えることのない僕の希望とは、何代目かは判らないこの目の前の「バット男」が、ここで歯車を逸脱してシステムを破壊するために立ち上がり、バットの持つ潜在能力をフルに発揮して、まずはその目の前の丸坊主を殴り殺す場面を目撃すること。やっちゃえってバット男。そんな馬鹿ども、思い切ってぶっ飛ばしちゃえばいい。泣かしてしまえばいい。うっかり殺してしまってもいい。頑張れバット男。なんて僕の心の声援も泣いてるバット男には届かなくて、「あへ、あへ、あへ、いいあは」ってバット男の締まらない泣き声が続くだけだった。公園の前に立ち止まってバット男を見つめている僕に丸坊主の連れの一人が気づいて「何だよ」と言った。僕は無視して歩き去った。「おう、何だよてめえ、無視すんじゃねえよバーカ」とか聞こえてきたけどもちろん無視。消えろよ猿。
 頼むってマジでバット男。バット使ってくれって真剣に。

バット男は弱者の象徴です。「僕」は弱者に同情的ではあり、ある種の祈りを抱いてはいるものの、強弱のまともにぶつかり合う世界に自らかかわりたいとは思わない。典型的な「普通の人」です。小説にはこういう「普通の人」がなかなか出てきませんが、私はこの「僕」のような人間こそ小説の主題になると思います。共感わきまくりです。
バット男は「僕」の高2の春に殺されてしまうが、日常はそれとかかわりなく進み、「僕」もあっさり忘れてしまう。が、それを思い出すことになったのは、高校をやめて結婚した友人(大賀)の妻(梶原)が、バット男のバットを隠し持っていたため。数年ぶりに見たバットには血痕が付いていた。それを預かってくれと言われて「僕」は答える。

 僕は言った。「駄目」
 大賀は僕の目を見た。まさか断られるとは思わなかったという目だった。「なんで」
 この馬鹿。「他人を巻き込むんじゃねーよ、祐介。これ、どう考えても誰かを殴ってんじゃねーかよ。多分バット男だろうけど、だとしたら、バット男死んでんだぞ?これ殺人事件の凶器じゃん。大事な証拠だよ証拠。こんなもん隠してたら、警察に捕まりかねねーよ。もし梶原がバット男殺しの犯人だったら、いよいよ俺やべえじゃん。こんなもん持ってらんねー。駄目。持って帰れよ(中略)」
 大賀の手が震えて、バットを包んだ新聞紙がガサガサいっている。
 大賀、そのバットで俺を殴れよ。いいから殴れよ。バットを振るうときは今なんだよ。やれよ大賀。俺を殴って殺してしまえ。
(中略)
 大賀を遠ざけたことで、僕は僕の平穏をちゃんと守ったらしかった。

事件に巻き込まれることばかりが小説になるのではなく、拒むことの方がよほど物語的な起伏を生みますね。小説の主人公は事件に巻き込まれ過ぎる、というのはつねづね思うことです。事件を拒否して安寧を保ちたい保身の気持ちと、その自分に対する破壊衝動が同時に現れるのは理解できる話です。それでなお、保身を選ぶのが普通の人でしょう。心の動きと行動がきちんと書かれていて、やはり共感を持ちます。

 それから僕は大学に通い続けて卒業して、首尾よく就職して妻と子を作り、守るものを大きく膨らましていく。僕はまたバット男のことなんてあまり考えなくなる。そんなことを考える暇もなくなる。でもバット男のバットを処分しなかったことがずっと響いていて、時々バット男の影が僕のそばを横切る気配におののいてしまう。(中略)真っ暗闇の中で僕は胸の上で手を合わせる。
「どうか僕をバット男にしないで下さい」「皆に殴られて泣かされて遊ばれるような奴にしないで下さい」「どこかの暗い公園で一人ぼっちで泣いてるんだか笑ってるんだか判らない変な声をあげさせないで下さい」「どうか」「どうか」
 でもどんなに祈っても、そこに神の存在は感じられず、僕の祈りが届けられたとは思えない。もし神がたくさん色んなところにいたとしても、誰かをバット男にしたりしなかったりするような神だけは、存在しないのかも知れない。あるいはそういう神がいたとしても、その神はあまりちゃんと仕事をしていないのかも知れない。その神は、僕たちと同じようにパーフェクトではないので、僕の祈りなんてうっかり聞きのがしているのかも知れない。

主人公は行動しません。強→弱の暴力の流れを傍観し、遠ざけ、かかわらないようにし、果ては祈るだけです。でもこれこそが私たちの姿に一番近いと感じます。「僕」は暴力に対して鈍感ではありません。むしろ敏感で、恐れる気持ちはとても強い。自分の中にある暴力性も熟知し、それをも恐れている。何かの弾みで自分が暴力のサイクルに組み込まれてしまったら、バットで人に殴られ、また殴る相手を探しに行くだろうと知っている。知っていることが何も役に立たない状況の前で立ち尽くす姿は、とても人間らしく、やはり私たち(というか私)のことを書いた小説であり、今書かれるべき作品だと思います。褒め過ぎですかしらん。

ついでに言うと、これは「熊の場所」と対をなす小説。言ってみれば「熊の場所」はバットをちゃんと処分する話です。「熊の場所」の方が作中の主人公にとってはめでたい話だと思いますが、どちらが小説的に面白いかといえば「バット男」を推します。