公人?

余計ごとですが一言言いたくなったので。

芸人は公人か。とある参院議員が、どこぞの芸人の親族が生活保護を受給していたことに関して声高に非難している。その流れで、当の芸人について「社会的影響力を持った立派な公人」との言及があり、何だかなあと思った次第。
狭くとらえれば、公人とは公職にある人を指す言葉だ。公務員や議員など。広くとらえれば公共の場で仕事をすることが多い人、ということになるだろうか。芸人はメディアに登場することが多いから公人だ、というのが言い分のよう。
単にテレビや雑誌に出ることが多いから公人、というくくり方でいいのか。狭義の公人に関しては誰も異論はないと思うが、目に見えない「社会的影響力」とやらを想像して定義を押し広げるのは慎重になった方がよいと思う。芸人がテレビで「不正受給をしよう」と言ったならともかく、今回の件はメディアからの直接の発信があるわけではない。そもそも今のネタ社会、何もかもが一種のネタとして消費される社会においては、芸人の言うことなんて誰も本気には取らないのだから社会的影響力など皆無である、という主張だってあながち不当とは言えないのだ。あれこれ言っている議員はおそらく、自分もテレビでの活動は芸人と同レベルに扱われているのを承知しているがために、自分が公人であるなら芸人も公人だ、と発想するようになったのかもしれない。
議員や公務員が芸人と違うのは「代表性」や「中立性」を帯びている点だ。選挙で選ばれる議員については言うまでもない。公務員もその職務に関しては、第一に法に基づいて執行しなければならないという点で一般人とは違う。ともに公の立場から職務を遂行せねばならないし、私人としての生活においても多少の制約は受けることになる。私人としてずるいことをやっていると、職務の面でも信頼が崩れてしまうのだから。
さて芸人。芸人なんて、多少人格が破綻している方が芸人らしい、と思われたのはもう昔の話だろうか。少なくとも私は、芸人には代表性も中立性も求めてはいない。どんなに人格が立派だとしてもつまらない芸人は仕方がない。特にお笑い芸人などというものは、「公」をおちょくる「私」の立場に立つべきものではないか。芸人はむしろ公人であってはならない。私たちも芸人を公人として扱ってはならない。「芸人がやってるんだから俺もやる」と単純に影響を受ける人間が仮にいるなら、「テレビの見方を分かってないよ」と言ってやらねばならない。テレビは模範を示す道具ではなく、単に人のあり方を誇張して映す箱なのだ、と。くだんの議員はそのへんをわざと知らぬふりしているのか、あるいは自分がテレビに絡め取られてしまい分からなくなってしまっているのか。

今回の件については、芸人の側が扶養の義務を果たさなかった、というのは事実のようで、これは公人とか私人とか言わずとも問題なしとはされるまい。出せるときには出すべきだった。ただ、親の方から「役所とのこともあるから」と言われれば、どうしようかとは思っただろう。役所とも一定の連絡はあった様子だから、その場面で役所の方から「出しなさい」と言うべきではあったが、これは芸人の問題と言うよりは役所の側の問題だ。
十数年前にさかのぼれば、息子に迷惑を掛けたくない母親と、売れない芸人がいたというだけの話。結果的に芸人はまずまず売れっ子になり、多少の余裕はできたわけだが、母親の方はだからといって息子の金を当てにはしなかった。芸能人にたかる親族が多いことを考えれば立派なことではないか。芸人は数年前に大病もしているし、浮き沈みの激しい仕事であることを考えれば、今は余裕があるとしても親の方から「金送れ」とは言いたくなかったのだろう。この親の姿が悪いといえるか、どうか。
今回のような件は、どこぞの個人を「公人」に仕立て上げたうえでことさらに非難すれば結構という話ではない。行政がきめ細かい対応をして、個々のケースに割ける時間を増やすために、人材を厚くしなければならないということだ。どうせルーティンワークだけで忙殺されてしまい、現場の問題を洗い出して制度に反映させるなんてことはできないような職場が大半だろう。役所からしてそれではどうしようもない。まずは福祉の人材を質量ともに厚くするのが本筋だろう。

最後に。こういう暴露話について「問題提起の意味はあった」というのはよく使われる言い訳ではあるが、関係者が芸能人でなければ人の口に上ることもなかっただろう話だ。今回の取り上げ方は明らかに単なる個人攻撃だし、多少とも目立つ人間に対しては容赦なく非難を浴びせるという風潮にはどうにも共感できない。少なくとも個人名を出す必要は全く無かった。某議員も、この程度の話題で世間を騒がしてあたかも何事か成し遂げたような顔をしているのでは、議員の肩書を振りかざしたタレント気取り、ぐらいに言われてもやむを得まい。それこそ公人らしく振る舞ってほしい。