奇妙な光景

「責任を取れと言われたくない」
最近のもろもろの出来事を見ていると、ただそのような考えが人を動かしているのではないかと思えてくる。
中学生の自殺といじめとを何とかして結びつけまいとする大津市の教委と学校しかり。原発事故について、万全の措置を講じていたと主張する東京電力しかり。
結果として、大津市教委と学校はコソコソと事実の隠蔽にひた走る小悪人の集まりのように見えてしまうし、東京電力に至っては「万全の措置を講じてもあんな事故を起こすなら、そもそも原発って無理じゃない?」という根本的な疑問を抱かせる。何なんだ。責任を取れと言われるのが嫌なばかりに、本来負うべき責任からも目を背けようとするからそういうことになるのか。しかしこの場合、本来負うべき責任とは何なのか。
「責任を取れ」。ネット時代になってことさら声高に言われるようになったことではある。しかし、例えば人の死について責任を取る、などということが可能なのかどうか。福島の事故についても、元に戻せないものについて責任を取るということは可能なのか。
責任を因果関係とは考えない、と前に書いたことがあったような気がする。この世は全体として大きな因果関係の網として動いており、部分を取り上げて「これこれが原因で結果だ」と取り上げることにはあまり意味を感じないからだ。責任というのは社会的な合意に基づく主体の設定だ。あなたに権利を認めるから責任を負いなさい、というのが責任の形。責任を負うのが嫌であれば何もしなければよい、というのはつくづく思うことでもある。
ざっくりと話をまとめてしまうが、結局、責任を負うということはこの場合、自分たちの職務に誠実であるということに尽きる。責任を取らされるのを嫌がって変てこな理屈をこねるほど、当人の存在は脅かされることになる。自分たちの存在は社会との関係にのっとったものであることを意識して、期待されるであろう仕事に励むならば、大津市の一件はこんなバカげた事態にはならなかっただろうし、東京電力原発地震津波で壊れるものであることを素直に認めることができただろう。「責任を取る」というのは二次的な話。そもそも取ることのできない場合だってある、というのを社会の側も認めなければならない。キチ○イじみたネット社会にはそれは無理なのだろうか。