ネオリベぎらい

「頑張った人が報われる社会」。そんな社会を作りたい、とよく言われる。特に新自由主義的な傾向が強い政党なんかは、こういうセリフが好きなようだ。新自由主義とは何ぞや。ネオリベラリズムの訳語というが、特徴としては市場主義と自己責任論が挙げられるだろうか。市場の最適化への働きはあまねく行き渡るのだから、そこで失敗しても文句は言うな、手前の責任だ、というところか。ひどい要約するな、と叱られるかもしれないが、まるで見当はずれでもないだろう。
こんな要約の仕方をするのはむろん、いわゆる新自由主義が私は大嫌いだから。例えば今度の総選挙で、日本維新の会とやらは最低賃金の撤廃を打ち出したそうだ。最低賃金などなくとも、不当な賃金を払う企業は労働者が逃げ去って、市場から淘汰されるという理屈か。ふーむ。例えば保険販売店。取り合えず雇った従業員に、ありったけの身内を無理にでも保険に加入させ、あとは歩合制ということにでもして、極限的な薄給で働かせる。結果的に、従業員は耐え切れず辞めるかもしれないが、保険の契約数という実績は販売店に残り、会社にもいくばくかの保険料は入る。万々歳。失業した人間のことさえ考えなければ、だが。雇う側は人間を使い捨てにするなど簡単なことなのだ。歯止めをかけるのが政治の仕事のはずだが、むしろ進んで弱い立場の人間を追い込もうとするとは何なのか。「頑張って成績を残せばちゃんとした報酬を得られる」とでも言いたいのか。そうやって無茶なノルマを課す企業がいかほどあることか。「頑張った人が報われる」という文言はその裏で、報われない人を「頑張らなかった」として中傷し差別するために用意された一種の陥穽ではないのか。
頑張っても報われないことはある。努力が必ず報われる社会を作ることなどできない、という見切りは必要だ。報われなかった人も、更に言えば頑張れなかった人も不幸にならない、そういう社会を作るのが正しい方向だ。モーツァルトの「魔笛」を思い出す。火と水の試練を潜り抜けた王子のタミーノは、美しい姫、パミーナとめでたく結ばれる。一方で、そもそも頑張ることなど苦手、いいかげんだが陽気な鳥刺しのパパゲーノには、彼にふさわしい連れ合い、パパゲーナがやって来る。おとぎ話と言うなかれ。世界とはそうあるべきものなのだ。
それでも、努力しない人が幸せになったら面白くない、と言う人はいそうだ。自己責任論というのはその辺がケチくさい。そもそも「努力することができる」ということ自体、一種の天恵ではないか。心身のタフさに恵まれ、努力を尊重する環境に恵まれ、向かうべき対象に出合った人だけが、努力することを許される。努力の価値を否定するものではないが、偶然の要素を忘れてはいけない。すべての出来事は、大きな大きな因果関係の海に漂う泡のようなものなのだから。
というわけで、今度の選挙でまた新自由主義的な傾向が進むなら、嫌なことだと思う。しかし日本人はどんどんバカになっているみたいだし、せめて今度の選挙が、一票の格差是正を怠ったかどで無効と判断されることを祈る今日このごろなのです。