敗戦記念日に寄せて

普通は「終戦記念日」という。これは「糖衣の言葉」だと、昔々に大学の政治学の授業で聞いた。確か佐藤誠三郎。「糖衣」とは読んで字のごとく、砂糖の衣。受け入れにくい事実について、字面だけでも飲み込みやすいものにするために使う言葉が糖衣の言葉だ、と言われた。確かに日本は国破れたのだが、終戦というとそのへんがうやむやになる。ただ一方、敗戦というと何となく雪辱しなければならないような気がしてくる。戦争に雪辱など必要ないので、そのへんは善し悪しかもしれない。
とにかく戦争は嫌だ。日本が戦争状態にないというだけでも、この今日を喜びたいぐらい。人間というものは出来が悪くて、状況次第でいくらでも下等にも残酷にもなる。内戦のシエラネオレで少年兵たちがどんなゲームに興じていたか。想像したくもないほどの残虐が行われていた。
そういうことを思うにつけ、今の自民党政権が、日本を戦争に巻き込む方向へ進もうとしていることは本当に気がかりだ。中韓との関係もしかり。中韓、と書きがちだが、これらの国とは歴史的な関係も現在の政治的な関係も違う。こういうくくり方はやめた方が良いかもしれない。特に中国とは、靖国神社A級戦犯分祀するだけで、だいぶ話が通りやすくなるのにと思うと、あの合祀はつくづく国益を損ねたと思う。そもそも戦死者ですらないものを。
戦争から遠ざかる方へ。国のかじ取りはそれで過つことがなかろうと信じる。戦争の欠如を平和と言ってよいのか? 福田恆存は「せめてそれを平和というのでなければ、何が平和か」という趣旨のことを言った。尖閣やら竹島やら、火種らしきものはあるけれど、日本はまだまだ豊かだし、人心も落ち着いているし、問題の解決のために面倒くさい話し合いを重ねる時間も十分に持っている。日本を過とうという連中は、いかにも今がギリギリの状況であるかのように語るだろうが、それは間違いだ。我々は豊かであり、待つことができる。そのことを忘れてはいけない。