知的なものの退潮

長谷川三千子氏という人のことをよく知らなかった。動物行動学者?と思ったがそれは長谷川真理子氏だった。取り違えるのは真理子氏に非常に失礼なこと、と思わざるを得ない。
長谷川三千子氏の方が、朝日新聞で拳銃自殺した野村秋介をたたえる文章を書いていたらしい。いつの世にも変な人はいるからそれはそれでよい。ただ長谷川氏が安倍晋三首相肝煎りでNHKの経営委員になった人だ、ということで問題になっている。報道機関へのテロ行為をたたえるような人が「公共放送の使命と社会的責任を深く自覚」(NHK「経営委員会委員の服務に関する準則」第1条)していると言えるのか、ということだろう。
同じく首相の意をくんで経営委員になった百田尚樹氏といい、安倍首相本人といい、どうしてこう日本の過去を繕いたがるのだろうと思わされる人が多い。こういう人たちは白井聡の「永続敗戦論」でも読んでみるとよいのではないか(ネットではここで要約が見られる)。かいつまんでいえば、日本の戦後は敗戦の否認と米国への隷従がずるずる続いてきた、ということ。敗戦の否認が米国の庇護の元で進んできた一方、米国への隷属はいやでも敗戦を思い起こさせる。それを否認するためにまた、自立とか強い国とか美しい国とか言い出す人が出てくる。日本の過去を取り繕いたい人々は少し、自分がなぜそのような考え方をしなければならないのか、反省した方がよいと思う。
もっとも、そういう人たちに対して、きちんとした知的な反論は無効だろう。彼らは「そんなことはどうでもいい。とにかく日本は良い国で立派なことをしたんだ」と言いたいだけだから。知的なものへの拒否。その程度の人を首相にいただいた自民党こそ恐るべきだが(都知事選の候補者が出せないわけだ!)、それを国民が支えているという事実もある。おそらくは、国民が全体的に、知的なものへの敬意を失いつつあるのではないか。マルクス主義の退潮とか専門の細分化とか大学の庶民化とか、いろいろ理由はあるのだろうが、学問や知性が尊重されなくなったというのは実感として感じる。この変化への対処法はあるのかどうか。
とりあえず、近ごろの自称保守派だか右翼だかには言いたい。言挙げをすればするほどバカに見えると。右翼というのは黙っている方が品格があるものだ。山間で田んぼでも耕して暮らすのが、今の右翼には一番ふさわしい。そのまま滅びてゆくのもよいではないか。伝統やら日本やらは、そもそも自分たちに都合のよい過去を切り貼りして作ったフィクションなのだから。せめて美しく滅びるべし。