今年も敗戦記念日

15日は敗戦記念日だった。戦後69年。昭和も遠くなりにけり、だがウクライナや中東では現に戦争が起きている。何のために戦うのか。戦いは人の本性なのかもしれないが、機関銃や戦闘機が実用化されてからの戦争は、もはや本性になじむとは言い難い。人が死に過ぎる。そして兵器は高価になり、死の商人だけが潤う。
何のために戦うか。身捨つるほどの祖国はありや、と寺山修司は詠んだものだが、そんな祖国はあると言われれば無いと言いたくなるし、無いと言われればあると答えたくなるようなもの。反語的な存在なのだ。しかし中東で今起こっていることは、そういう次元とまた別の話になりつつあるようだ。
イスラム国の台頭についてはロイターに良い記事が出ていた(勢力拡大するイスラム国、中東の「新秩序」を形成か)。やはり日本のメディアよりもヨーロッパのメディアの方が中東に関しては見通しが利くようだ。イスラム国は日本ではテロ集団のような扱いを受けているが、実態はもはやそんな段階を超えているという話。イラクとシリアにまたがる領域に確かな地歩を築きつつある。現代において、既存の独立国家と国境を認めず、いちから新しい国を作ろうという動きが起こるのは意外だった。国民も国境も国家も擬制であり、ただ人間と土地があるだけだ。とはいえ擬制擬制なりに機能しており、人々がそこそこ暮らしていける限りはそれでよい、と思っていたが、中東ではうまく機能しなくなってきている。イスラム国と現に対峙するクルド勢力も、イスラム国と戦うことで自己の存在を高め、現在の国境を無効化しようとしている様子がうかがえる。クルドも決して一枚岩ではないはずだが、周辺国も含めたクルド勢力が結束する時が来るかもしれない。少なくともその兆候はある(イラク:北部で国外クルド勢力「共闘」 イスラム国攻撃に)。欧米はとりあえずクルド方に肩入れするようだが、その後も事態をコントロールできるつもりだろうか。
パレスチナの惨状も続く。イスラエルにしろパレスチナにしろアメリカにしろ、状況をコントロールできているわけではない。その中でただ衝突は起き、武器は流通する。
積極的平和主義とやらは武器(防衛装備と言うらしい)を輸出したり米軍のお先棒を担いだりするのがその本旨らしいが、どこがどうして平和主義なのか分からない。武器の流通を増やして、その武器に苦しめられるため出向くのが平和主義か。アメリカの得意なことだが、そのアメリカは今、疲弊しきって世界から手を引こうとしつつある。平和のためにはその方がむしろ良いのでは、とも思うが、力の空白を埋めようとロシアやら中国やらがうごめく。日本も虎狼の駆け引きに交じりたいというのが本音なのだろうか。やめろと言うほかない。
どうも話があっちこっち行く。安倍晋三首相に文句も言いたいが、今は中東のことが気になるのだった。情報はマスコミを除けば、中田考氏のツイッター池内恵さんのブログ「中東・イスラーム学の風姿花伝」に拠る。池内さんとは大学時代に軽く交流があったので、ご活躍慶賀の至りです。マスコミや学界への手厳しい発言も多いが、現実的な状況認識がとても勉強になる。日本語で読めるイスラム主義者・中田氏のつぶやきは興味深い。イスラムというものが日本人の考えがちな宗教とはだいぶ違うということがよく分かる。宗教は心の問題、と日本人は考えがちだが、イスラムは生活のすべてに及ぶのだ。イスラム教徒にとってイスラム主義というのは別段むちゃくちゃなことではないと分かる。家に上がるときは靴を脱ぐとか、風呂では浴槽で体を洗わないとかいうレベルから宗教がはたらいていると考えれば話が早かろうか。ハラール認証とか日本ではどうも商売の話が先走るが、そのへんの隅々からジハードまでを一体として理解できないと、なかなか商売にもならないのではないかと思う。
話は戻って敗戦の日。戦後の平和は続いたが、一国平和主義はいかんと安倍晋三首相はいうわけだ。しかし考えてもみよ。戦争をコントロールできるわけでもない勢力がのこのこと戦場に参加したところで、それは戦争当事国が一つ増えるだけのことではないか。結果として恨みを買い、事態は好転せず、また武器が売れる。そういう悪循環から身を引いたのが憲法9条であって、まあ声高に「9条守れ」とかデモの人たちの口まねをするのは気が引けるのだが。
一国平和主義はそれとして守りつつ、日本と同様の国を増やすべく活動するのが「平和主義」ではないのでしょうか、安倍首相さま。