佐藤さとるの訃報に接して

佐藤さとるさんが9日に亡くなったとのよし。新聞で読んで知ったことですが、88歳で死因が心不全というなら、天寿を全うされたと言うべきでしょう。ご冥福をお祈りします。
比較的最近、青年期の自伝(「コロボックルに出会うまで」)を読んで佐藤さとる平塚武二の弟子筋の人だったことを知り、あれだけ自分の思うようにものを書いた人でも、やはり師匠のような存在は必要だったのだと。ものを作るというのはそう簡単なことではないと改めて思わされる。
この自伝は戦後、横浜市役所に就職してから実業之日本社に移って編集者になるまでが書かれているのだったが、中のエピソードではやはり、奥様に出会うくだりが印象的だ。役所を事実上、上司とけんかするような形で飛び出し、本来なるはずではなかった教員として赴任した先に、後から新任で来た女性が奥様だったとのこと。しかし最初に目が合った時からすでに「自分はこの人と結婚する」ということが「互いに」分かったというのだから大変なものだ。「盲亀の浮木」「優曇華の花」という言葉で互いにたとえるほどの出会いというが、そのへんのことは作品にもあふれるロマンチシズムにも影響しているだろう。というか、よほどのロマンチストでなければ、そんな出会いは訪れない。あるいは、人との出会いをそんなにロマンチックな形で記憶することはできない。
佐藤さとるの作品にはボーイ・ミーツ・ガールの主題が多い。「てのひら島はどこにある」に発展した「井戸のある谷間」もそうだし、コロボックル物語でも「だれも知らない小さな国」は主人公のせいたかさんとおちび先生、「豆つぶほどの小さな犬」はコロボックル同士、「星から落ちた小さな人」はせいたかさんの娘とオチャ公の出会いが描かれる。長編だけでなく、短い話でもそう。一人遊びをしている男の子のところに見知らぬ女の子が現れる、というような話が実に多い。もちろん短い話ではその後どうこうと書かれるわけではないのだが、思いもよらない出会いにこの作家が魅せられていたということは容易に察せられる。佐藤さとるの書くものはファンタジーと位置づけられることが多いし、もちろんそのことに異論はないが、その想像力と筆力が日常から地続きに話を運ぶ手際はつねに見事で、ふとした出会いが簡単に異世界への扉を開くようだった。
長編もどれも良かったが、短編も「海が消える」のようなものが印象深い。部屋の外から見える景色をいつも海のように見立てていた男の子のところに、ある日本当にその海を舟に乗って女の子が渡ってくるというお話。さしたることもなく女の子は去っていくが、だんだんその海がまた見慣れた風景に戻っていくところを見て、男の子は「ああ、海が消えてしまう」と思う。このような「見立て」は子どもなら誰でもしたことがあるはずだが、そこから話を膨らませ、かつコンパクトに畳みつつそこに現れるだろう「気持ち」をつかみ取る。子どもを中心に描きながら、話の組み立てや心情のこまやかさは大人になって初めて分かることも多かった。
ファンの多い作家ではあるし、亡くなったことによってまた出版もあるかもしれない。私が主に読んだのは80年代前半に出た「佐藤さとるファンタジー全集」全16巻だが、こういう出版形態が可能だったことに驚く。どれほど売れる作家でも、子ども向けの作家の全集を、当人はまだ50代になのに出すということは、今では考えられないだろう。80年代というのも一面では豊かな時代だった。
佐藤さとるについてはまた何か書くと思います。