渡辺京二『原発とジャングル』

渡辺京二さんは近代文明に懐疑的ではあるが、でも決して否定的というわけではない。元々は貧乏でもあってろくにものを持つこともなかったが、本の収集にはあらがいがたく、熊本地震では本と本棚に難渋させられたという。その渡辺京二地震後にタクシーに乗ったところ、運転手から「わしゃ部屋にゃ何も置いとらんから倒るるものもありゃせんだった。大体みんな、モノの持ちすぎですバイ。要らんもんまで買いこむもんだから大ごとになる」と言われて一言もなかったという。しかしそれでも「文明をもたらす人間の欲望は、ある限界を設けるべきではあろうが、決して否定してはならぬ性質のものだ。それを否定するなら、都市も家屋も書物も美しい工芸も消失する。文明は持ち重りのするものだ。しかし、それに耐えて保持するに値するものだ」という(「虚無と向きあう」)。

ただし、今の文明は人間の手に負えるものなのか、という疑問は消えない。持ち重りで済めばよいのだが、一旦緩急あるときには人間を押しつぶすものになってはいないか。今回の北海道の地震を見ても、地震そのものが引き起こした危害より、それによる電力停止などのほうが大きいダメージを引き起こしているようだ。当たり前に享受するものが増えるほど、それが失われた時のリスクは大きい。都市機能も、電気もガスも水道も、持ち家も勤務先も、複雑で精巧になるほどリスクは増す。東京はそうしたものを固めてつくった街になってしまったが、実際に何か起こるまでは何も知らないふりをして過ごすだろうか。とりあえず賃貸住宅に住み替える方がマシなのかも――江戸時代の町民は誰も持ち家になど住んでいなかったのだし。