新型コロナと医療に期待すべきこと

新型コロナウイルスが蔓延している。単に流行しているというだけでなく、私たちの生活を強い力で制約しているのだから席捲していると言ってもいい。

危惧されているのは医療崩壊。医師や看護師に感染者が増えて医療体制を維持できなくなることが危ぶまれている。人々の医療への期待がかくも大きいことと、ワクチンのない感染症に対しては現代社会もこれほどにもろいということに驚く。

新型コロナが怖いかというと、どうもピンとこない。同居家族にハイリスク層がいないせいもあるだろう。マスクをしなければならなくなったことや、外でうっかり何かにむせたりすると眉をひそめられたりすることの方がよほどつらい。何より、感染対策と称して人が簡単に自由を放り捨てたことがつらい。

夜出歩くな、酒場に行くな、人と会うな――感染を防ぐためといえばもっともらしいが、そうした細部の営みこそが人生であって、それ抜きに命を永らえることにどれほどの意味があるのか。一時の我慢というかもしれないが、人の命などいつ終わるか分からない。人生を放棄してそのまま死ぬことになるなら、その時の無念はいかばかりか。

医療は何をすべきか。人は医療に延命を期待しすぎる。西洋医学機械的な故障を修理する際には素晴らしい効能を発揮するが、原因と結果の因果関係がはっきりしない疾患には役に立たないことが多い。10年以上前に目をわずらったが結局は原因不明のままで、そのこと自体に不満はないのだが、大病院のもっともらしさに比べるとできることはいかにも小さい。

新型コロナのように原因が分かったところで、薬がなければやはり無力に近い。人工呼吸器を付けて自然治癒に俟つ、という方法が患者の選別を招くのだから、医療者に必要なのは医術とは別の、ある意味では非情で機械的な判断力になってしまう。目の前で苦しんでいる人を放ってはおけないという人に自然な惻隠の情を放棄させてはいけないが、そうなると必要なのは患者側の「諦め」ないし「覚悟」ということになる。

医師の役割として「時に癒やし、しばしば和らげ、常に慰む」という言葉がある。そうあるべきだと思うし、人は医療にそれ以上を期待すべきでもない。江戸時代までは人間の死というのはもう少し身近なもので、一般人も人間は遅かれ早かれ死ぬということをよく知っていた。

まあ医療者が「どうせ死ぬんだし」と思ってしまっては身もフタもないのだが、人の心構えとしては「メメント・モリ」――死を思え、ということを常にどこかに留めておくべきだし、まずは悔いのないように生きるということが、病に備えるということではないのだろうか。