正しさは十分、しかし正しさだけでは足りない

斎藤幸平『人新世の「資本論」』(集英社新書)を読む。ざっくり言うと、地球温暖化による危機を、資本主義を退場させることによって乗り越えようという話だ。そこまでしなくても資本主義の暴走を防ぎながら技術革新に投資すれば何とかなるのではないか、という議論に対しても斎藤は手厳しい。記憶に残ったのは下記のような指摘。

気候ケインズ主義の訴えは、魅惑的に聞こえるかもしれない。だが、それは、自分たちの帝国的生活様式を変えることなく――つまり、自分たちはなにもせずとも――気候ケインズ主義が持続可能な未来を約束してくれるからだ。

帝国的生活様式とは汚染や破局を周縁に押しつけて、自分は中心で快適にぬくぬくと過ごすというイメージか。要するに今の快適な生活を手放したくないがために、技術革新で何とかできるという言葉に飛びついて無為や怠惰の口実とするわけだ。

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同じ頃に読んでいた『ゲンロン11』(ゲンロン)の東浩紀の論考(「悪の愚かさについて2、あるいは原発事故と中動態の記憶」)で紹介していたジャン=ピエール・デュピュイの議論がこれと結びつく。

破局は一度起きてしまえば、まるでそれが事物の通常の秩序であるかのように見えてしまう」が、「破局はそれが現実のものとなる前には、起こりうるものとは思われない」。

 破局のこの性格は、それを阻止するにあたり、原因から結果を予測してリスクを回避する、常識的で合理的な思考が役にたたないことを意味している。(中略)破局を避けるためには、破局を避けることができると考えてはならない。なぜならば、破局を避けることができる、つまり、自分たちのこれからの行動が破局が来るか来ないかを決めるのだと考えた瞬間に、ぼくたちは、原因と結果の連関を組み立て、リスクを「計算」し、破局の発生可能性はほとんどないので行動は変えなくてよいと判断を下してしまうからである。(中略)

 破局を避けるためには、破局を避けることができると信じてはならない。未来を変えるためには、未来は変えることができると信じてはならない。

 引用が長くなった。人間というものは本当に足元に火が付くまで、それまでのやり方を変えることなどできないのだということを突きつけられているように思う。これに対処するためにはどう考えるべきか。デュピュイの議論をまとめるように東は言う。

 デュピュイはそのような事例に対処するためには、最悪の未来は既に決まっており、確率にかかわらず必ず起こるのだと、あえて非合理的な想定を採用する方が結果的に合理的なはずだと主張しているのだ。これはきわめて具体的な提言である。

破局を避けるためには、破局が起こってしまった未来から過去へさかのぼる形で「もしこのような選択がなされていたならば破局は起きなかったかもしれない」と想像して物語を編み直さなければならないということか。東の直接の対象はチェルノブイリであり、福島であり、またナチスであり731部隊であり――で、これから起きる破局地球温暖化)ではないが、示唆に富む。

『人新世の「資本論」』における斎藤の議論は分かりやすく、説得力がある。近年の世界的な異常気象――シベリアの高温、オーストラリアや北米西部の森林火災など――を伝え聞くにつけても、何か良くないことが起きていることは感じられる。そもそも気候の変動が比較的穏やかな日本においてすら、台風や豪雨の被害が近年増大していることを温暖化と結びつけずに考えるのは難しいだろう。

ただし、それでもなお、人の心を揺り動かして行動へ駆り立てるには足りないと感じる。私たちはもっと、破局の重みを自分のものとして抱きかかえねばならず、そこからさかのぼって、破局に至らない歩みを想像しなければならない。ここで求められているのは科学だけではない。必要なのは文学ではないか。