『大野晋の日本語相談』

しばらく間があきました。今更ながら夏休みで少し遠出していたこともあり休止状態に。子供も暴れますし。歩けるようになったこの先月来、一段と人らしくなってきたようであります。やたらと外へ出たがるわ、何だかよく分からないけれどしきりとしゃべるわ、飯も食うわ食うわ、なかなか見ていて飽きない人です。
それはともかく。今日の本は『大野晋の日本語相談』。この手の本は少なくないですが、あまり役に立つものは見たことがありません。大岡信井上ひさしでは、ちょっと気の利いた思いつきくらいは示してくれることもありますが任ではないと言うべきでしょう。しかし大野晋は違います。役に立ちます。
「一ヶ月の『ヶ』はなぜ『か』と読む?」という質問への回答で、「箇」という字の一部を取った略号だとしたことに対し、「『ヶ』は『个』に由来する文字ではないか?」という再質問があったケース。大野の回答は説得力があります。

私が「个」を日本の「一ヶ月」「三ヶ月分」のもとの字としなかった主な理由は、この「个」が、奈良時代、あるいは平安時代のはじめころの日本人の書いた文献に見えないということにあるのです。
 正倉院には奈良時代の厖大な文献──当時の戸籍や寺々の記録などが残っています。現在はそれの写真も公刊されています。そこには「玖拾箇日」(九十箇日)(天平五年)、「二箇月」「一箇月」(宝亀四年)など「箇」の例は多くありますが、「个」を私は見出しておりません。『日本書紀』や『続日本紀』の古写本にも「一个年」というような形は見ておりません。

「見ておりません」というのは控えめな言い方であって、平安までの文書において「个」が「ヶ」のように用いられた例はないということに大野氏は自信を持っているようです。博捜した文献に基づいて自信を持って語る、というのは学者ならではの仕事と言えるでしょう。このように、揺るぎない根拠に基づいた回答が盛りだくさんで、どの回答も一通り勉強になります。
ところで「个」の字は、手元の漢和辞典(『漢辞海』)を見ると「箇の略字」とあるのですが、同じ字にはなかなか見えにくい。白川静の『字通』を見ると「个」の項に「箇と通用する」とあるものの、「箇」の項には「个は半竹の形ともみえず、別の系統の字である」とあります。もし略字であるというなら、日本の「ヶ」と「个」は兄弟くらいの文字になるのでしょうけれど、そうとも一口には言えない様子。難しいもんです。