榎倉康二展、ほか

 バイトで校閲をやっている雑誌が28日に入稿が済んで、「よっしゃ久しぶりに展覧会でも行こ」と思ったのが1日のことですから、もう3日前のお話です。しかし今は展示の端境期なのか、今ひとつメジャーな企画がなく、ま、それならそれなりにと久しぶりに木場の東京都現代美術館へ行って参りました。企画展の一つ目は榎倉康二展。例によって予備知識がないので、昔の『美術手帖』から引用すると

榎倉康二 1942-〔1995〕
一九六〇年代末より発表を始める。同時代に後に「もの派」としてまとめられる動向があるが、これとは一線を画し、七〇年前後およびその後の動向が「もの派」を軸に展開しているという観点に高山登、原口典之らとともに疑問を呈している。美術史的にはモダニズムが批判的に検証され、政治・社会的にさまざまな制度が攻撃の対象となった当時において、理論武装を急ぐよりはむしろ外界(現実世界─事物・風景)と内界(身体・知覚・感性)とのリアルな交流を作る“媒質の提示”を主要なモティーフとしてきた。(後略)(『美術手帖』1993年1月号より)

何だか難しいことが書いてあってやはりよく分かりません。「もの派」と一緒にされがちだが本人はそれを否定していた、ということは分かりますが。
作品は巨大な布を重ね合わせた≪無題No.1≫や、≪予兆−床・手(P.W.-No.51)≫のような、何事かを予感させる写真など。写真以外の作品は、平面的な構成であっても、素材をそのままに感じさせるものが多うございました。特に感じ良く見たのは、展覧会のHPにも出ている≪無題≫1977年。平面的な構成に「材木を版木にした油の染み」「その材木」「材木の影」という、一つの素材に由来する三つの様態が配置されているものです。これがなかなか意味深い寂しさを感じさせます。我が身を材木に置き換えれば、壁に寄りかかる様子は失意の姿を思わせますし、離れて浮かぶ痕跡は過去の己の姿、それもやや上方に浮いているところを見ると今よりは良かった何時かの姿かもしれません。今の自分に出来ることは、壁に影を投げかけるだけ──とか何とか、まあ物語に汚染された感傷ではありますが。むろん、シンプルに配置の妙を楽しむことの出来る作品でもあります。後年、同様の素材で、しかし材木が塗料をかぶっている≪干渉≫が現れるのを見ると、何だか世の中生きにくくなったのかな、と感じたりもしますけれども。
他に面白かったのは作品の構想を練ったエスキス。「即物的に!」とか「自分の満足をフォローするな」とか、いろいろ。素材を生かすというか、素材に手を加えるほどに作品が自己から遠ざかり、もの自体として自立するような制作を目指していた──とか分かったような分からないような言い回しになって恐縮です。ともかく、人が創作に当たって考えたことをのぞき見るのは楽しうございます。
ついでに併催されていたMOTアニュアル2005 愛と孤独、そして笑いも見る。こちらは比較的若い女性作家10人を集めた企画展。しかし、正直言って見てもあまり楽しくはありませんでした。一番良かったのはオノデラユキの写真。被写体の人々(シルエットで現れる)が皆、床面からちょっと浮いている非現実感が軽快です。岡田裕子会田誠の奥さんらしいですね。もっともビデオというのは、私にはいまだによく分からない形態です。芸術なのかどうかという以前に、見て楽しいかどうか、というレベルで。出来の良さにしても訳の分からなさにしても、得てして教育テレビの方が勝っていたりするものですから。
上で今は展示の端境期と書きましたが、今月の下旬からは東京国立近代美術館ゴッホ展、横浜美術館ルーブル展など始まります。元気出して見に行きましょー。