木田元『偶然性と運命』『新人生論ノート』

福知山線のJR事故のニュースを見ていると、大惨事の起きた1両目、2両目に乗っていた場合でも、わずかな立ち位置の違いが生死の運命を分けていることに憮然たらざるを得ません。人はそれを、死者にとっては不幸な偶然と考えるかもしれないし、自らの手の届かないものと見なし運命のいたずらと呼んだりもするでしょう。世間的には、その場を支配した微妙な傾きの前に立ち止まるよりもJR西日本の経営実態を糾弾する方が正しいのかもしれませんが、私の興味はむしろ「運命」や「偶然」に向きます。特に偶然性について。
人はなぜある種の事態について「偶然」と呼ぶのか。すべての因果関係をねばり強く闡明していくなら、この世に生じる出来事はすべて必然に基づくものと明らかになり、偶然性の介在する余地は無くなるのではないか、少なくとも著しく減少するのではないか、というのが第一の疑問です。木田元は『偶然性と運命』の中で、このような引用をしています。

たとえばスピノザは、「ある物が偶然と呼ばれるのは、われわれの認識に欠陥があるからにすぎないのであって、それ以外のいかなる理由によるものでもない」と言っているし、カントも「幸運とか運命とかいった概念」は「不当に獲得された概念」だと言い、ヘーゲルも「哲学的考察は偶然的な物を排除するという以外の意図はもたない」と言う。(pp.49-50、一部略)

もっとも木田元は近代理性主義の立場に立つ人ではありませんから、こうした意見にはくみしません。木田の整理によれば、西欧的理性というのは唯一絶対なる神の出張所みたいなものですから、理性による認識は神にまで遡ることができてしまう以上、偶然なんてものの介在する余地はあるはずがない、というわけです。
そんな木田が考える手がかりにするのは九鬼周造ハイデガーの哲学になじんでおり『偶然性の問題』という主著もある九鬼は、ハイデガー研究者の木田にとっては格好の材料になります。
しかし、これがわからんのですよ。『偶然性と運命』の第2章「偶然性の概念」で、木田は九鬼の「講義 偶然性」などをネタにしつつ概念の説明を試みるのですが、今ひとつはっきりしません。九鬼の考える偶然性の三つのカテゴリーを〈論理的偶然〉〈経験的偶然〉〈形而上的偶然〉と呼び直して、私たちに関係があるのは〈経験的偶然〉だというのは了解。「経験的偶然というのは、それぞれ独立の二つ、あるいは二つ以上の因果系列が交叉するところに生じる」というのも、まあ良しとしましょう。しかしこれだけでは、日常起こりうるほぼすべての事態を「偶然の産物」と呼ぶことができてしまいます。
一方で、偶然性の三つの性質として、①何かあることもないこともできる(必然でも不可能でもない)②可能が可能なままで、必然に移ることなしに現実化されなければならない③稀にしかない──の3点を挙げています。注目は③の「稀にしかない」。つまり私たちの認識に引っかかるような際立ったもののみが偶然の名に値するということです。
しかしこれでも釈然としませんねー。私たちは、自分が直面した偶然についても、「よく考えてみれば偶然ではなかった」と思うことがしばしばあります。因果関係を自分の中で整理し直すことによって、偶然と必然が表裏をひるがえすことはごく普通のことなのです。サイコロを振って3が出ることは偶然だとも言えますが、「1〜6のどれかが出る」という範囲での必然に従った事象だとも言えるわけで、私たちの認識のレベルがメタの水準に上っていくことによって、偶然は偶然では無くなるのではないでしょうか。まあ、これを突き詰めていけば先の引用のスピノザ発言になるのでしょうけれど、あれはおそらく究極原因の神があっての言葉だと思うので、私にはピンと来ないものです。偶然が偶然として認められるには、ある事象を偶然と呼びたい人の心性が働いているのではないか、というのがとりあえずの感想。
一方で、九鬼の時間性と偶然性を結びつけた考察は、偶然の概念をつかむにはなお不十分というか迂遠な感じがしますが、何だか刺激的です。木田による引用から。

可能性の時間性が未来であり、必然性の時間性が過去であるに反して、偶然性の時間性は〈いま〉を図式とする現在である。いったい、未来的の可能は現実を通して過去的の必然へ推移する。可能は、大なる可能性から不可能性に接する極微の可能性に至るまで、可能の可能性によって現実と成る。現実は必然へ展開する。そうして一般に、可能が現実面へ出遇う場合が広義の偶然である。(中略)そうして現実性が時間的には現在を意味する限り、偶然性の時間性も現在でなければならない。(pp.79-80)

木田元はこの部分に、「どうも調子で話を進めるところがある」と言いつつも、「『偶然性の時間性は現在だ』という主張には、正しい直感の裏付けがあるように思われて、肯きたくなる」と述べています。私も具体的には分かりませんが、日常の経験に埋没しそうな「偶然」を、違う軸の「時間」と絡める発想には広がりを感じ、打開の糸口があるような気がします。この線で誰か何かいいこと言ってくれても良さそうなのですが、やはり難しいのでしょうか。

『新人生論ノート』まで手が回らなくなってしまいました。こちらは木田元らしいユーモラスで品のいいエッセー集。今一番エッセーを書いてほしい書き手は木田元だ、というのが感想です。偉そうでないし構えたところがないから読んでいて快いです。年を取ったからか、とも思いましたが年を取っても偉そうで不愉快な文章を書く人はなんぼでもいますし、やはり人徳でしょう。