デイヴィッド・コパフィールド

小説というのは長ければ長いほど面白いと言ったのは奥泉光だと思いますが、確かに小説というのは長さ自体に徳とすべきところがあると思います。ディケンズの代表作『デイヴィッド・コパフィールド』も例外ではなく、長いがゆえに面白い。とりあえず引用。

「トロットウッド、わたし、とっても幸せよ──胸がいっぱいで──でも、これだけは言っておかなくちゃ」
「へえ、何かな」
そっと両手をぼくの肩にかけると、穏やかにアグネスはぼくの顔を覗き込んだ。
「何だか、もう分かったでしょ」
「いや、何なのか考えるのも、ちょっとこわい気がするな。言ってくれよ、ねえ」
「わたしね、最初からずっと、あなたのことが好きだったのよ」

……これは何てラブコメですか?と思いました。
イギリスの国民作家ディケンズの代表作で、いわゆる教養小説の典型としても挙げられる「デイヴィッド・コパフィールド」の主要場面。それがこんなにもラブコメだったとは……。(一応補足すると「トロットウッド」というのは主人公デイヴィッドが伯母の養子になってからの名前。アグネスは宿世の妻となる女性)

むろんこれは、現代の私たちがラブコメという文脈を知っているからそう思うだけの話であって、ディケンズがラブコメの開祖だとか何とかいうわけではないのです。しかしディケンズのキャラクターの造形は「キャラ立ち」だの「キャラ萌え」だのを押さえているとしか思えません。いまの日本に配置しても違和感がない。ビクトリア朝的に“お上品”で偽善的な要素が物語の一部を方向付けているとはいえ、自由に換骨奪胎してアニメ化できるのではないかとさえ感じてしまいます。
ストーリーは主人公であるデイヴィッド・コパフィールドの半生をたどってゆくもの。従って、デイヴィッドを軸に各登場人物を紹介していくのが、一番効率よくあらすじを紹介する方法でしょう。以下大いに長くなりそうですが……。
●デイヴィッド・コパフィールド
生前に同名の父を亡くすが、母クレアラと女中のペゴティーの庇護下で幸福な幼年期を過ごす。ペゴティーの兄や美少女エミリーらともこのころ知り合い、親密になる。しかし、母がマードストンと再婚したことで環境が一変。いじめ抜かれた上に寄宿学校へ追いやられ、そこでスティアフォース、トラドルズらと知り合う。家を離れている間に母が病没。邪魔者扱いはさらに度を加え丁稚奉公に出され、下宿ではミスター・ミコーバーと知り合う。奉公先での将来に危機感を覚え、自らの境遇を変えるべく逃亡、伯母ベッツィ・トロットウッドの元へ。マードストンとは縁を切って伯母の養子になる。
伯母の計らいで、弁護士のウィックフィールド家に寄宿しながら学校へ通うことになり、また同家で、同じ年ごろながら家政を取り仕切る美少女アグネス、卑屈なユライア・ヒープらと知り合う。学校は優秀な成績で卒業。進路を決めるまでの間として伯母に許された小旅行中にスティアフォースと再会。ペゴティーの兄、エミリーらと引き会わせる。伯母の勧めでローマ法博士会に職を求めることにし、スペンロウ氏の事務所に入る。スペンロウ氏の娘、美少女ドーラに一目惚れし結婚を考えるようになるが、伯母が破産。ドーラとの結婚はかなわぬかというところで、ストロング氏が死去。頼りない身の上となったドーラとの結婚を果たすべく、速記記者として独り立ち、同時に物書きとしても名をなしてゆく。一方、スティアフォースがエミリーを誘惑して駆け落ち、ペゴティーの兄はエミリーを捜す旅に出る。
成人するに至ってドーラと結婚。しかしドーラは生活面では完全に無能力で、結婚生活は早々に破たんを来す。何とかドーラに必要なことを教えようとするもかなわず、あきらめたころドーラは病みつく。ウィックフィールド氏の共同経営者に成り上がったユライアは、アグネスを手に入れるためウィックフィールド家を乗っ取らんとしていたが、ユライアの助手をしていたミスター・ミコーバーがユライアの悪事を糾弾、弁護士になっていたトラドルズと共にユライアの排除に成功し、伯母の財産も取り戻す。また、このころエミリーも見つかり、ペゴティーの兄が救出。誹謗の及ばぬ豪州へミコーバー一家ともども渡ることに。ドーラは回復せず病没する。
傷心の主人公に、スティアフォース水難死の事件が重なる。事件がエミリーに知られぬようにして送り出すと、自分もまた旅に出る。不在中の仕事で名声を高め3年後に帰国。アグネスが独身でいるのを知り、自分に必要なのはアグネスだと改めて認識。アグネスの思いも同様だったことを知ってめでたく結婚。仕事もうまくいき、子どもたちにも恵まれて、ハッピーに暮らす……。

容貌は整っているらしい。基本的な性格はまじめで純真。幼時の苦労にもかかわらずひねくれたところはない。率直に言って面白みに富む人物ではないし、語り手たる主人公でなければ影は薄い。しかし、それでよいのでしょう。主人公なんてものは小説に一貫性を持たせるための方便にすぎないのですから。主人公の印象が弱いからこそ、周囲の人物の印象が引き立つのであって、ディケンズはきちんと考えて書いているのだと思われます。
それなりに煩悶したり懊悩したりもしていますが、勝手にやっとれ、というのは単に私の共感が薄いだけかもしれません。でもねえ、ミスター・ミコーバーとかの面白さに比べれば、我らが主人公はただのぼやっとした坊やにしか見えないのですよね。もっとも、年齢にかかわらず終始「坊や」然としているのは、訳者が一人称を「ぼく」で訳しているからかもしれず。まあ、主人公に向かって言いたいことがあるとすれば早くアグネスとくっつきなさいということに尽きます。何年も待たせてアグネスがかわいそうだ。
●クレアラ・コパフィールド
主人公の母。若くして夫を失う。ベッツィからは「赤ん坊」と言われたように世間知らず。容姿はそれなりに整っている。「ちょっと色っぽい未亡人」などとうわさされるのを聞いて喜んだりと、あまり落ち着いた人柄ではなく、結局そこをマードストンに付け入られ結婚。結婚後は未熟さを鍛えるとばかりにマードストンとその姉からいじめられ、マードストンとの間に子どもをもうけるも産後の肥立ちが悪く(?)赤ん坊ともども病没。
●ペゴティー
名はクレアラ。主人公の母と同じ名前のため姓のペゴティーで呼ばれる。とにかく主人公思い。主人公の母とも仲が良かったが、マードストンに追い出されるように家を出る。主人公の取り持ちで、運び屋のバーキスと結婚。夫には先立たれるが財産も十分にあり、最後は主人公の側で暮らすようになる。
●ベッツィ・トロットウッド
主人公の父の伯母。なので主人公にとっては本当は大伯母だが、つねに伯母さんと呼んでいるのでそれでよいでしょう。変人。主人公の出生時に同じ家にいたが、娘が生まれることのみを期待していたため、生まれたのが男の子だと分かると即座に帰ってしまう。ここで帰らずにクレアラの世話をしていれば主人公も余計な苦労はせずに済んだろうに……とも思うが、少年の主人公が家を訪れてからのベッツィはひたすら甥思いの伯母だった。強固な自我を持つ女丈夫として活躍し、自分の考え方と相反するマードストンやユライア・ヒープに対しては小気味よく啖呵を切る。
●スティアフォース
主人公を魅了する小メフィストフェレス。眉目秀麗で知力体力とも容易に匹敵しえない、完全な能力の持ち主で、人をたちまちとりこにする異様な魅力を備える。しかし立身出世や社会貢献には全く興味がなく、無駄な挑発や冒険に情熱を燃やし、自分の求める女性像をエミリーに見いだしてかどわかす。一言でいえば迷惑なロマン主義者。オネーギンやペチョーリンといった余計者の趣もある。最後は無謀な航海の結果として、エミリーの元婚約者ハムとともに命を落とす。
●アグネス
スティアフォースの対極をゆく完全な能力と人格の持ち主。あちらが悪魔ならこちらはベアトリーチェ。生徒時代の主人公が下宿する、弁護士ウィックフィールド家のお嬢さん。登場したときは主人公と同じ年ごろの少女(10歳程度か)で、既に「顔はすごく晴れやかで楽しそうなのに、落ち着いた雰囲気がそこからも全体からも醸し出されていた」と言われる。でもそんな少女が「いくつもの鍵の入った小さな子供用のバスケットをわきにぶら下げて」家の中を取り仕切る姿は想像するだけでほほ笑ましい、というか萌えます。長じるまで主人公のことを思い続け、最後には結婚して大団円を迎える。完全すぎてリアリティーが無いとか何とか言われますが、キャラとしては一種の典型であって文句を付けるのが野暮というもの。しかし主人公はアグネスのことを「君のところにやってくると心が落ち着いて幸せな気分になれるんだ」とか「君はいつもぼくの天使さ」とか言い続けているけれど、だったら早くどうにかしなさい。どうにかする気が無いのならそんなこと言うな。かわいそうじゃないか。

……この調子であらすじと人物を紹介してったらえらい分量になりそうな……。今日はとりあえずここまで。後日追加します。