裁判員裁判で死刑回避

耳かき店員殺害:裁判員裁判、死刑を回避…地裁が無期判決
東京都港区で09年、耳かきエステ店員の江尻美保さん(当時21歳)と祖母の鈴木芳江さん(同78歳)を殺害したとして、殺人罪などに問われた常連客の無職、林貢二(こうじ)被告(42)の裁判員裁判で、東京地裁(若園敦雄裁判長)は1日、無期懲役判決を言い渡した。検察側は裁判員裁判で初の死刑を求刑したが、判決は「一方的に江尻さんへの思いを募らせ悩んだ末の犯行。深く後悔しており人生の最後の瞬間まで内省を深めることを期待すべきだ」と死刑を回避した。(毎日jpより)

「何人殺せば死刑に」…江尻さんの父
判決後、江尻美保さんの父(57)は弁護士を通じコメントを発表した。全文は以下の通り。
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この判決を聞いて、悔しくて涙も出ませんでした。
この事件は、家の中にまで入ってきて、関係のない祖母まで殺害するという本当に陰湿で残虐な事件です。
被告人に前科がなければいいのか、「自分なり」に反省を示せばよいのか、人間を2人殺してこんな判決でいいのかと思います。
この事件で、無期になるのであれば、一体何人殺せば死刑になるというのでしょうか。(毎日jpより。一部略)

「何人殺せば死刑に?」という問いに対しては、たとえ何人殺そうと「死刑」には値しない、と答えなければならない。「死刑」が国家権力の行使であるならば尚更のことだ。もっとも、この答えが正しいとしても、そこにたどり着くまでのプロセスで、被害者および遺族の気持ちを理解し慰撫することができるかどうか。捜査や審判、加害者の受刑という一連の手続きが、遺族らを癒やすものであることを願う。
今回の耳かきエステ店員らが殺害された事件で、裁判員たちは死刑を選ばなかった。もとより私は死刑制度に賛成できないので、この決定を支持するし、死刑を選ぶか否かという問いに直面させられた裁判員らの労苦に対し、敬意を表したいと思う。前にも書いたかもしれないが、死刑と無期懲役の間で刑罰の重みに差がありすぎることが、判決に当たっての困難をいっそう大きくしているのではないか。やはり仮釈放なしの終身刑が必要だろう。
小酒井敏晶は『責任という虚構』の中で、死刑というのは、事件に関する私たちのモヤモヤをすっきりさせるため儀式だ、みたいなことを書いていた(手元に本がないので間違っていたら済みません)。「責任を取る(取らせる)」と考えること自体が、物事にとりあえずの区切りを作って、私たちが事件を処理しやすくするための簡略化の作業なのだ。主体や意思というものを責任の前提に据えることができるのかどうか、そのへんをあいまいにすることで、私たちは物事をどうにかこなしている。その「とりあえず」の連鎖において、「人を殺す(死刑も含む)」という取り返しの付かないプロセスは、人の判断において動かすには、あまりに重すぎる決定なのではなかろうか。
とはいえ、被告は人を殺している。現に取り返しの付かないことが起きているのを、どう回復するか。犯人を殺すことで秩序を回復するのが相当ではないのか――。ここでは、個人の行為と国家の営みを区別することで、とにかく死刑はいけないというほかない。個人の行為に飛躍は起こり得るとしても、国家の判断が行き過ぎることは許されない。それでは殺したもの勝ちになる?かといえば実際には社会はそうなっていない(戦争状態を除けば)。その事実をおもんみて、事態の回復に関しても、犯人を殺す以外の方法をとらねばならない。
しかし、遺族にとっては、犯人の憎さは殺しても飽きたりぬほどだろう。「自分なりに反省」「前科がない」といったことで死刑が避けられたかのように読める判決理由は、説得力に乏しく、むしろ遺族の神経を逆なでするものかもしれない。もっとも私には、この判決理由の紋切り型的な文言にしても、死刑をどうしても選びにくいという苦渋からひねり出された、困苦の跡のように見える。裁判員らにしても、遺族らのことを精いっぱい理解しようと努めたうえで、死刑を選ばなかったのだ。今回の判決は、けっして遺族をひとり置き去りにしようというものでない。そう思った。