少年と死刑

宮城・石巻の3人殺傷:裁判員、少年に初の死刑 「更生可能性低い」−−仙台地裁
 宮城県石巻市で今年2月に起きた3人殺傷事件で殺人罪などに問われた同市の元解体作業員の少年(19)の裁判員裁判で、仙台地裁は25日、求刑通り死刑を言い渡した。鈴木信行裁判長は、事件の残虐性や身勝手さと共に、「反省は十分とは言えない」と指摘し、少年の更生可能性を「著しく低い」と断じた。裁判員裁判では初の少年への死刑判決となる。
 弁護側は、公判で少年が反省の言葉を述べたことや、事件時18歳223日の年齢などを理由に「更生可能性がある」と極刑回避を訴えていた。判決は ▽表面的な言葉で、反省に深みがない▽謝罪の手紙は1回だけで、被害者の精神的苦痛を和らげるような謝罪がない▽自己に不利益な点は「覚えていない」と述べるなど不合理な弁解をした−−などとして「事件の重大性を十分認識しているとは到底言えない」と指摘、更生可能性について否定的な見方を示した。(11月26日毎日jpより)

言うまでもなく20歳から「成人」としているのは便宜的な線引きに過ぎない。人は20歳になったからといって急に成熟したりはしない。成人という考え方は、個人の内実に対して与えられる属性ではなく、社会的な扱いの取り決めなのだ。とはいえ、20歳になった日を境に、人はようやく一個の主体として認められ、契約を結んだり選挙で投票したりすることができるようになる。与えられた権利や課せられた義務によってこそ成人たる内実が生まれ、人は成人らしくなってゆく。
ところで成人になるまで、人間は社会的にはあいまいな存在だ。それを少年法では名付けて「少年」と呼ぶ(この法律で「少年」とは、二十歳に満たない者をいい、「成人」とは、満二十歳以上の者をいう<少年法第2条>)。少年はまだ社会的には人間と認められていない。一個人が持つべき権利を与えられていない。生き物としては確かに人間で、やることなすこと人間以外の何ものでもないのに、これはうまくない。少年法で保護されるゆえんである。権利が不十分ならせめて保護しようというのは道理だ。
しかし困ったこともある。18、19歳ぐらいになると、人間もはや成人とほとんど変わらないことができるようになる。そういう連中がたまたま犯罪を起こす。殺人の場合もある。けしからん、もう大人と一緒だろう、成人並みの罰が必要だ、とくる。まあ実際に彼らのずうたいを見ればそんな気持ちになるのかもしれない。それで少年法でも、18歳未満の少年については、死一等を減じる規定があるが、18、19歳の少年に関しては何も言っていない。罪を裁くなら成人並みにどうぞ、と言っているようにも取れる。しかしどうなのか。十分な権利を与えずに刑罰だけ成人並み、というのは社会的な扱いとして公正を欠くのではないか。法の規定はともかくとして、実際の裁判で「18歳」という線引きを問題にするのはだからだろう。
簡単な解決法がある。成人年齢を18歳にしてしまえばいい。国民投票法では18歳以上に投票を認めている(他の選挙法制の改正が前提になってはいるが)。ついでに結婚できる年齢も男女とも18歳にそろえ、高校生の飲酒や喫煙に関しては規制する法令を別途もうければいい。これで「少年法によって守られない少年」はいなくなる。
成人年齢引き下げが話題になると、必ず「18歳なんてまだ子どもだ」みたいな意見が出るが、さきにも述べたように、成人というのは個人の内実に与えられる属性ではないのだから、関係ない。はい、18歳になったから成人だよ、成人らしく扱うから、それらしくしなさいよ、と言ってやればよいのだ。自覚が人をつくる、はずである。
今の政府はごたごたをたくさん抱えていて、とても成人年齢引き下げとか言っている余裕はなさそうだが。こういうことや死刑廃止とかは、政治決断ですぱっとやってしまわなければらちが明かないことだ。さっさとやってほしいと思う。
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ところで今回の事件について。「更生の可能性」とは、たとえば無期懲役の場合にはどういう意味を持つのだろう。社会復帰、ということは軽々に言えないはずだ。真人間になるということか。むろん私は死刑には反対なのだが、こういう場合に「更生の可能性」を死刑回避の理由に持ち出すことには釈然としない。私なりにいえば「何十年かけてでも罪を自覚して悔悟の念を深めるために、無期懲役を必要なものとして求刑してほしい」というところか。こういう事件においても、死刑はある意味では、軽きに過ぎる。