高橋源一郎『日本文学盛衰史』

高橋源一郎日本文学盛衰史』(講談社文庫)を読む。文学を立ち上げる現場の勢いと息苦しさに高橋源一郎自身の困難が重なり合って、興味深い。困難とはむろん書くことの困難。当たり前のように日本語でものを書くということが、いかに当たり前でないか。その事実を、口語文の創造から自由詩、小説というジャンルの立ち上げをなぞりつつ、高橋源一郎自身が生き直していくような小説だ。
明治という時代は今から見ると不思議な時代だ。みな元気が良い。多くのことを、場合によっては何もかもを、新しく始めなければならなかったためだ。文学においても。
小説を書く手段を見つけたのは二葉亭四迷こと長谷川辰之助、および山田美妙。口語文の発明で初めて、私たちがなじんでいるような小説が可能になった。それまでの戯作の文体や伝統的な漢文は、内面の表白には全く使えなかったのだ。いやむしろ、口語文が内面を作り出したと言うべきだろう。西洋のような小説が書ける、そう信じて文学を志した人々が、日本の近代文学を作った。あくまで「日本の」ではあるが。
日本の小説で最も日本らしいと言われるものに私小説がある。たいがいは、作者自身ないし作者を仮託した人物を主人公に、身の回りのことを書く。その源流であり代表作とされるのが自然主義文学、ことに田山花袋の「蒲団」である。
前置きが長くなったが、「日本文学盛衰史」では、けっこうな部分を割いて、この作品を批評する。章題は「蒲団'98 女子大生の生本番」。
「蒲団」がどういう話か確認しよう。花袋を思わせる作家が、うら若い女性の弟子を取る。作家と弟子は相思相愛かと思われたが、妻帯者である作家は一線を越えない。弟子の女性は結局、作家のほかに男を作ったあげく、実家に呼び戻されることになり作家の家を出る。作家は弟子の使っていた蒲団にその残り香をかぎ、慟哭する−−こうして書くと、改めてしょうもない話ですね。
「盛衰史」では、ネタに詰まったアダルトビデオの監督が、「蒲団」を元ネタにして作品をこしらえようとする(作家が女子大生の弟子とややこしいことをするようなお話)。そこへ田山花袋本人も乱入して、花袋の評論「露骨なる描写」を引きながら、ありのままを描くということと文学が両立するのかと問う。
ここからは私の感想。花袋は「本当のこと」を書きたかった。作り話の小説を読んでも面白いと思えないし、自分が面白くない小説を書くことも嫌だった。本当のことを書くにはどうするか。事実に裏打ちされた小説を書く、という単純な話になる。そして、その事実に関する自分の気持ちをうそ偽りなく、あからさまに描く。花袋はそれが可能だと信じ、それが良い小説につながると信じた−−というのはちょっとナイーブすぎな見方か。露悪的な告白、しかも比定すべきモデルのある話を書けば、皆が瞠目するはずと、花袋は単に考えたのかもしれない。それでもいい。花袋は「露骨さ」の持つ力には疑いを抱いていなかった、とは言えるのだから。
しかし、「盛衰史」に出てくるAVの監督は言う。そんなに露骨にやりたいなら、ハンディーカムでやれよ、と。明治時代にハンディーカムなど無かった、と言っても仕方がない。AV監督は、露骨さを言いながら文学っぽい文章をそれでも仕立てようとする花袋に対し、腹を立てているのだから。あんたは露骨さが分かっていない、と。
しかし、カメラならよいのか。「露骨さ」によって、「本当のこと」に到達できると考えている点では、AV監督と花袋は同じではないのか。AVは露骨かもしれない。しかし、そこで描き出されることが本当のことと思う人間はまずいない。そこには、ただ露骨なうそごとが繰り広げられている。
小説はAVとは違う。露骨さの標的は、人物の内面だった。ことに私小説では、作家自身の心の動きを、恥ずべき部分もお構いなしに描き出すことが新機軸であり、高等な方法であると、おそらくは信じることができた。シンプルな時代だった。
話が長くなってきました。続きは後日。