体罰自殺・その後

以前、CS放送のアニマル・プラネットでシャチの番組を見たことがある。シャチは子育てに15年かけると言っていた。15年! 義務教育でもあるのしらと言いたくなるが、人間の教育と違って、シャチは子供に体罰を与えたりはしないだろう。
翻って人間のやることは、何かにつけ茶番じみている。どこぞの横車を押すので有名な市長がまた無理を言い、体罰で問題になった高校の当該科の入試を中止しろという。自殺者が出たことは重大な問題だし当事者の教諭は責任を免れないと思うが、こういう対処の仕方はどうなのか。結局、当該科の入試は中止になったが、普通科枠でその分の志願者を受け入れるという妙な結果に落ち着いた。生徒の受け入れ地域も試験内容も、実施するはずだった入試と同等のもの。某市長はご満悦のようだが傍から見たら茶番でしかない。そんな処分ならしない方がマシだろう。ただ生徒たちに、権力があれば好き勝手できるということを教えただけだった。あるいはそれを教えるのが目的か。悔しければ権力者になれ、と。いずれにせよ、体罰の撲滅に役立たないことは確かである。
体罰の問題は根が深い。体罰は良くない。暴力である。全くそう思うのだが、だからといって容易に根絶できないとも思う。体罰という言い方が悪ければ、なんだろう。上下関係を根拠にして、相手を服従させるために苦痛を与える行為、とでも言えばよいのか。回りくどい。とりあえず「折檻」とでも言い換えようか。せっかん。ヒステリックな響きがあって、体罰よりもふさわしいだろうか。
自分のしたいように振る舞う人間に言うことを聞かせる方法はあるか。言葉で伝える、というのが一つ目の方法。それでも言うことを聞かなかった場合にどうするか。なお言葉で伝える。違う言い方をしたり、語気を強めたり、なだめすかしたり。それでも言うことを聞かなかったらどうするか。もうこのへんで、ぶん殴って分からせる、という答えが出てきそうだ。あるいは、もう見放して声を掛けるのをやめるとか。
問題が複雑になるのは、この「言うことを聞かない」側が、間違っていたり危険なことをしていたりする場合だ。指導する側は、相手のためと思っていろいろ言うが、相手は聞かない。折檻が起きるのは、大抵こういう場面においてだろう。これをコミュニケーション力の不足であって、良い指導者ならそんなことはしない、と言ってもはじまらない。「良い指導者」はその場にいない。人格的にはともかく、技能的には相手より優れている指導者なら、何とかして相手に言うことを聞かせようとするだろう。そこで折檻が起きる。痛い思いをしたくなければ、言うことを聞け。単純だが、分かりやすい。
さらに問題が深まるのは、この折檻という方法がうまくいく場合もあるからだ。殴られる側もいろいろで、あの時は殴られてコノヤローと思ったが後になってみるとありがたみがよく分かった、みたいな話がぼろぼろ出てくるかと思えば、殴られることの嫌さの余りに自殺してしまう子どももある。人は一人一人違う。当たり前の話だが、指導する側が一人一人にそこまで気を使えるかというのは別問題。まあ少なからぬ数に有効だった方法なのだから、折檻だって悪くあるまい、と思うようになっても不思議はない。
折檻は良くない、との自覚を持つべきは誰なのか。こうしてみると、まず殴られる側が、殴られることは良くないと思わなければならない。理不尽にはノーと言わねばならない。ただし、ノーと言うならば、なぜ自分が従わないかを説明しなければならないわけで、これがまた難しい。特に子どもは自分のことを説明しないし説明できない。説明を聞こうとすれば余計イライラさせられるだけで、それがまた折檻を呼ぶ。一度悪循環にはまると抜けられない。人間関係、万事においてかくのごとし。
まあとにかく、何が何でも手を上げない、という原則を確立するしかなさそうだ。悪循環の元を断つ。それが学校においてであれば、手を上げることが即、クビにかかわることであると、各個人と学校とで認識を共有する。そこからさかのぼって手を上げないで済ます方法を探ってゆく。個々の折檻が問題になるかどうかは、コミュニケーションのことだけにケース・バイ・ケースとなるだろうが、殴ることは良くないことだという大原則は揺るがさず、指導者側の自己正当化は一切取り上げないこと。教育基本法の学校の教員の条項に一言付け加えればいい。「児童、生徒に体罰を加えてはならない」と。国を愛するとか何とか言うよりは教育的だろう。
さらにしかし、折檻の問題はもっと根が深い。子ども同士の間での折檻、親から子への折檻もある。人間関係も親子関係もクビにすれば済むものではない。初めに戻るが、やっぱり容易に根絶はできないだろう。人間関係から暴力が無くなることはない。やんぬるかな。せめて学校は、暴力を受ける側は口をつぐまない、暴力を振るう側は自己正当化しない、ということを教える場であってほしいが、これは単なる願望に過ぎない。