それなりの受け皿を

前回のようなことを書いてから、渡辺京二「反乱する心情」(『アーリイモダンの夢』所収)を読んで反省した。二・二六事件の反乱将校たちの心情を慮った小文だ。渡辺氏はいう。「反乱将校は出世と保身に汲々たる将校の実態に激しく反発した。現実と特権に吐気を催した。四十年前にわれわれは同じ現象を観ている。大学紛争時の全共闘派学生の気分は著しく二・二六反乱者のそれに似ていた。歴史は周期的に青春の叛逆を繰り返すのだろうか」
田母神氏はいただけないが、氏に投票した人たちは、やはりなにがしかの「現実と特権」に反発し、今までと違ったことを言う人を求めているのだろう。たとえ手垢にまみれた陰謀論めいたものであろうと、それが堂々と公衆の面前で語られるようになったという点で、新しく見えたのも無理はないのかもしれない。
とはいえ、田母神氏的な考え方は、持続可能性に乏しくむしろ破滅的である。私たちに必要なのは、強さというならばもっと堅実な、好戦的でない強さ。愛郷をいうならば矯激でない愛郷心。正しさをいうならば狭量でない正義。豊かさをいうならば物質や金銭にとどまらない持続可能な豊かさ。そういうもので、偏狭で自棄的で近視眼的で威勢が良いだけのハリボテを打倒しなければ。ともすればデスパレートな方向へ向きやすい心情を、きちんと受け止めなければならない。