書く心

「およそ言論の場で、文章をおおやけにして身すぎ世すぎをしようとする者は、大にして天下国家、小にして身辺の世情にふれて、おのれの判断を誇ろうとする姿勢を免れることができない。誇ろうとはせぬまでも、自分がいかに智者であり賢者であるか、少なくとも人と違うことの言える才人であるか、立証に励まぬわけにはいかない」(渡辺京二「未踏の野を過ぎて」より)
渡辺京二氏の書いたものをしばらく続けて読んでいて、どれも面白く読んだのだが、印象深かったのがこの、新聞のコラムを担当するに当たっての「前口上」のくだり。この文はここから、「そういう賢者の構えがつくづくいやになって久しい」と続くのだが、どうして私たちが本や新聞に載るご高説を素直に読むことができないかを端的に示してくれている。お説ごもっともと思いつつも、そんな立派なこと言われてもねえ、という感情を拭い去ることができない。どうしてもこの「おのれの判断を誇ろうとする姿勢」をかぎ取らずにいられないからだ。それはむろん、マスメディアに載るようなものでなく、こんなブログであっても同様で、更新が間遠になりがちなのも、訳知り顔のさかしら立ちが「つくづくいやになって久しい」からではある。しかし渡辺氏そこにとどまらない。
「だが私は、釣りや山遊びの話を書いて、私は分相応のことをしています、といった澄まし顔ができる文人ではない。天下国家について考え、世相について思いを新たにするというのは、私という少年の志であった。生涯の課題は死んでも捨てきれるものではない。/だとすれば私は、これからも天下国家や世相について、つたない思考を続けてゆかねばならぬのである。自分が賢者でないと知りつつ、賢者らしき構えから逃げられぬのである」
天性というものがある。遺伝と環境で人の全てが決まる、それは事実だが、そのいずれもが、抗しがたい力で人生を覆いつくす大きな連関の中にある。その連関を運命といい、人の身に結ばれた運命を天性という。渡辺氏は単に、黙っていられないという性分なのではない。世のため人のためと称して何にでもくちばしを突っ込み、批判と称して人をおとしめる、そのような輩とは違う。氏を動かすのは、うちに生き続ける少年の志と、ついに賢者たり得ぬ己を振り返る反省の両輪である。愚かしさを憎みつつも自分の正しさを信じることがない、そのうえでなお書くという隘路へと突き動かされるのが氏の天性だ。
一方で氏は「心の奥底をのぞきこんでみれば、天下国家はむろんのこと、まわりの世の中の動きなど、知ったことじゃあないさという自分がいる。むろん、それは世直しなど知ったことじゃあないさという自分でもある」とも言い、伊東静雄の詩を引く。「真にひとりなるひとは自然の大いなる聯関のうちに、恒に覚めゐむ事を希う」。氏はおそらく、「本当のこと」を書きたいのだろう。単に知り得た知識や思想、単なる経験に基づく知ではなく、一個の自分において血肉となっている本当のことを。書かれるべきことというものは常にそのような本当のことなのだ。
人間を人間たらしめているものはただ言葉だけではないかと考えるようになって久しいが、目にする言葉のおおかたにげんなりとし、そもそも言葉など無ければよいと思うことも多い。それでも、渡辺氏のような書き物を見ると励まされるし、まだ何かすべきことはあるのではないかと鼓舞される。読むことと書くこと、どちらもその価値はいまだ失われていない。