渡辺京二「幻影の明治」

渡辺京二氏の著作の中にちらほらと山田風太郎の名前が出てくるのに気付いてはいたが、「幻影の明治」は風太郎を正面から扱った章が冒頭に置かれる。いわく「山田風太郎の明治」。渡辺氏のような知的な人には似つかわしくないほどの大絶賛で、風太郎ファンとしては面映ゆいくらいだ。

風太郎はよく正義を信じないニヒリストなどと評されるけれども、それは時代が正義と称するものを信じないというだけで、かえって内心に極めて強い正義感を秘めた人なのである。敗者は敗れるべくして敗れたのだろうが、かといって勝者が敗者に加えた理不尽な行為を許してはならない。風太郎が敗戦経験によって得たきわめて強烈な信念の一つにこのことがあった。(中略)時代の流れからして正しいか正しくないかなどという、歴史の弁証など風太郎は信じない。人は歴史の動きなどとは関係がなく、信義に立つべきである。これも彼が敗戦から得た論議の要のない信念である。かかる信念の持ち主がニヒリストのはずがあろうか。

こういう山田風太郎の倫理的な側面について正面切って語った人がなかっただけに新鮮だ。風太郎の登場人物の、時として自己を省みない献身的な姿が渡辺氏の琴線に触れたのだろう。氏はこうも言う。

表には冷笑的で皮肉な態度を保ちつつも、この人の胸底には人間の持つ真率で純粋な熱誠に感動する熱い心が匿されていて、折にふれて露頭せずにはいない。この点でも、彼は芥川によく似ているのである。この人間の尊い熱誠が歴史という怪物によって踏み躙られるとき、彼の最高の作家的情熱に火がつく。

山田風太郎を芥川に似ていると評したのは江戸川乱歩だったか。風太郎は本当に乱歩に可愛がられ、そのせいで推理作家になったような人だが、独特な頭の回転と冷めた筆を持つ青年に乱歩が芥川を感じたのは、おそらく間違いではなかったのだろう。風太郎自身も芥川を好んだ。「奉教人の死」を評して、たとえ一度きりの楽しみに終わるとしても、こうした「仕掛けのある小説」の楽しみを尊重したいと述べたが、風太郎が愛したのは単にその仕掛けだけではなく、自己犠牲をいとわなかった主人公「ろおれんぞ」の姿でもあったろう。「「ろおれんぞ」が最期を知るものは、「ろおれんぞ」の一生を知るものではござるまいか」という「奉教人の死」の最後の一節は、山田風太郎の多くの小説に流れるモチーフでもある。人の一生とはその全てを語ることで語り尽くせるものではない、たとえ一瞬であろうとも生命が光芒を放つ瞬間を捉え得るなら、それで十分なのだと風太郎は考えた。
しかし、渡辺氏のこの理解にふれて思ったのは、村上春樹氏がイスラエルでの講演で語った「壁と卵」の比喩だ。人間というものはしばしば、制度という壁の前では卵のような存在でしかありえないが、作家は常に卵の側に立つものでなければならない、というような話。
問題はそれをどのように作品に表現するかだが、風太郎は娯楽小説の形を取りつつもよけいな講釈を差し挟むことなく、人の生が燃焼する瞬間をつかみ取り、作品に描くことができた。作家としての力量である。
講釈、という言葉を使ったのは「幻影の明治」所収の後の章に現れる「張扇をもって机を搏ちつつ声を張り上げる講釈師」という司馬遼太郎への評価を読んだから。渡辺氏による風太郎へのほとんどパセティックなほどの評価とこの司馬評とを比べるにつけても、単に渡辺氏の立ち位置が測られるというだけでなく、二人の作家としての品格の差が知れるというものではないか。