戦後70年談話

安倍晋三首相はこの談話でいったい何をしたかったのか。まあ、少なくとも外形的には、安倍首相は敗北を喫したのだと思う。歴史修正主義的な見解を極力抑え、過去の談話を踏襲すると改めて言わなければならなくなったのだから。今後も日本の要人は、大戦にまつわる歴史認識を問われたなら「いや、村山談話の通りですから」と言って差し支えないだろう。実質的な中身はそこにしかないのだから。
そのうえで、安倍談話を褒める人がいるということは、私はちょっと理解できない。長すぎる。焦点がぼやけている。日本語が下手くそだ。下手くそぶりはたとえばこう。

 事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない。

片言のような体言止め。「事変」は、この談話に最も密接な関連のある満州事変の場合、侵略の言い換えに過ぎない。脈絡の乏しい三つの単語をポッと並べて何が言いたいのか、論理が無い。続いて「武力の威嚇や行使も……用いてはならない」とあるが、「行使を用いない」は重言だろう。これは「武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」とある現9条1項を改悪した自民党憲法草案の9条1項「武力による威嚇及び武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては用いない」によるものだろう。自民党保守政党なのに日本語が下手くそ。
歴史の整理も、何というか、他人事のようなのだ。できれば幕末から書き起こすべきだった。アヘン戦争の中国の敗北、ロシアの東進が日本に衝撃を与え、黒船をバックにした力の論理で無理やり開国させられたこと、外からの圧力によって急激な開化を強いられたために、ありうべき内側からの開化の機会を失ったこと。力の論理で幕府を倒した人々による藩閥政治が、富国強兵という偏った論理で日本の軍国主義化を推し進めたことなど。でもこれを書いたら、今の長州閥の首相などは立場がなかろう。
大戦の死者も大方が餓死だったと書いてほしい。基本的に同胞の命を失わしめたのは国家であり政府である。しかし「歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈なものです」とはまた他人事のよう。
村山談話は、議論もあるだろうがそれでも簡明にはできていた。50年の復興を支えてくれた外国への感謝、大戦へのおわびと反省、未来に向けての決意。実際のところ、外国向けのメッセージとしてはそれで過不足ないのではないか。安倍談話がこのまま朽ち果て、村山談話が参照され続けることを希望する。