人の子という不幸

春めくや 親はなくとも 子は育つ
まあ俳句っぽく仕立てたのは冗談ではあるが、「親はなくとも子は育つ」というのは良い言葉だ。特に子育てがうまくいかないと感じるとき――要するに子どもが言うことを聞かないとき――には、まじないのように声を出さずに繰り返す。親など本来は子どもの邪魔をするばかりで、成長の役に立っているのかどうかはわからんのだ、と。坂口安吾は更に進んで「親があっても、子が育つんだ」と言った(不良少年とキリスト)。親に邪魔をされてなお子どもは育つものだというが、往々にして親が子どもをゆがめる存在であることは間違いがない。まあ、邪魔であること自体が成長を促す場合もあるだろうけれど。
「子の連れ去りに関するハーグ条約」というものを最近日本が批准した。16歳未満の子の国外への連れ去りに関する条約で、最高裁での判決が出たのだが、この条約は子自身の意思を考慮しない点が特徴的だ。子どもの最善の利益は両親の双方と交流を持つことだというのがあらかじめ決定されている。親の仕事なんてものは、子どもを飢えさせないこと、うべくんば健康を保てるようにすること――それに尽きると思うのだが、条約はそういう観点から作られたわけではなく、子は親の付属物である、という強固な信念の産物のようだ。うーむ。人の子は不幸だね。鳥の子であれば自分で飛べるようになったら親との縁はそれまでだし、昆虫の子など最初からすべて一人で何とかするわけだが。
子の出国に当たって夫婦間に問題を残したままでは後でもめることはいうまでもなく、防止のために取り決めをすることは悪いこととばかりは言い切れないが……。人間というのはすべて未熟なものではあるが、ある年齢で線引きをして、そこから上は法的な主体として認める――というのが法律的な人間の扱いだが、本人の利益に深く関わることについてはそのラインに満たない年齢であるとしても、部分的には主体として認めるべきではないのか。いずれにせよ人間は未熟であり、自分自身にとっても何が本当の利益なのかなど分かりっこないのだから、せめて決定には自分の意思が尊重されたと感じられることが大事なのだ。