国が傾くとは

安倍晋三首相がサマータイムの検討を、と言い出したのには驚いた。東京オリンピックのためだそう。2時間繰り上げも考えられるらしく、今は午前6時に起きている人なら午前4時の時間帯に起きることになる。しかしこの時間設定はどうしたものか。東京の夏至の頃なら一応明るんでいる時間帯だが、8月9月の西日本では真っ暗だろう。そんな時間にごそごそ起き出して一日を始めなければいけないというのは罰ゲームに近い。あさはか、というほかに言葉はあるか。オリンピックに不都合、というならそもそも7月8月にやることが不都合。10月にできないなら最初から招致すべきでなかった。日本で夏に五輪を開催する能力がある都市なんて、もう札幌しかないのではないか。札幌五輪に変更して、新国立も札幌に造ればいい。

日大のアメリカンフットボールの事件における大学理事長や当局の対応ぶり、東京医科大および文部科学省の失態、ボクシング連盟の破綻ぶり、本当のことを言わない安倍政権のうそつきぶり、などを見ていると、当たり前の徳のはずだった優しさとか公正さとか正直さとかが、いつの間にか打ち捨てられてしまっていることに気付く。この国はどうなってしまったのか、というと少し違う。私たちは今、「国が傾く」という時にはまさしくこのようなことが起きるのだ、ということを目にしている。イメージとしては鎌倉幕府末期あたり、時の首相は北条高時の役どころか。

気をつけないと悠仁親王をかついで天皇親政を目指す輩が出てきそうですな。愛子内親王南北朝に分かれたりするのかも。

児童虐待とセクハラをするやつは死ねばいい、とすら思うのだが、問題はそう単純でもない。
児童虐待。最近目に入った東京・目黒の女児のニュースは本当に可哀そうでやり切れない。反省文の内容は親の言ったことを反復したものと思われるにもかかわらず、なぜこれほどに胸を打つのか。おそらくはあの女児が、寝たきりになるほどの虐待に遭いながらも、なお親のことを好きで慕っているからだ。けなげ。酷薄な親だからといって、死んでしまえの一言で話が片付くわけではない。
考えてみれば虐待した親の言い分は、社会の子供に対する圧力をあからさまに反映している。飛行機の中で赤ん坊を泣きやませろとか、保育園がうるさいとか、公園で子供が遊ぶのが気に入らないとか、幼子の親はいつでもそうした圧力にさらされている。それを先鋭化すれば、こうなる。子どもは騒ぐな。きちんとしろ。勉強しろ。手伝え。子供らしくするな。幼子は宝石のように輝いているのに人の社会はそれを曇らせることに執心している。
セクハラ。自分はしていないと思っているところが不幸なことだ。その意味では組織人誰しもが無縁ではない。自覚がなければ罪すべきではない、ということも無いではない。主よ彼らを許したまえ、その為すところを知らざればなり――先日もこのくだりを書いた。しかし問題は別のところにあるのだろう。?本当に知らなかったのか。?知らないことを許される立場だったのか。今時、普通の組織人ならセクハラ教育ぐらい受けているものだ。べからず集、官庁にも企業にもないとは言わせない。それを踏まえてなお性的な冗談を出入りのマスコミにぶつけてヘラヘラしていられる人間の気が知れない。そして責任の重さ、大きさ。人の上に立とうという人間が下卑た冗談で笑っていられるということはグロテスクではないか。
グロテスクなものを拒まなければならない。強いものにへつらうこと、弱いものを虐げること。時に不本意でも膝を折らなければならないことはあるかもしれないが、人生は長い。生きている限り、そこが終着点ではない。日大のアメフット部の学生の姿はよかった。人間は立ち直りうる。グロテスクなものを拒否する方へ。自由を愛し、誇り高く生きなければならない。

財務省の文書改ざん

やっているだろうと思ったがやはりやっていた。政治家がどうあろうと日本を支えているのは自分たちだ、というのが良くも悪くも官僚のプライドであったはずだが、そういうものを徹底的にくじいてきたのが今の政治改革とやら。プライドなくして国家の運営などという七面倒くさい仕事に関われるはずもないと思うが、その点は見過ごされてきたよう。マスコミも官僚はたたきやすいからたたくしねえ。官僚は政治家の言うことを聞いておけ、という今のあり方は、子どもは親の言うことを聞いておけ、という親子関係に似る。どちらもろくなもんじゃない。話半分に聞いておいて、自分のやりたいことをやればいい。それでも政治家なり親なりの言うことが大道から外れていないなら、そんなにひどいことにはならないはずだから。

人の子という不幸

春めくや 親はなくとも 子は育つ
まあ俳句っぽく仕立てたのは冗談ではあるが、「親はなくとも子は育つ」というのは良い言葉だ。特に子育てがうまくいかないと感じるとき――要するに子どもが言うことを聞かないとき――には、まじないのように声を出さずに繰り返す。親など本来は子どもの邪魔をするばかりで、成長の役に立っているのかどうかはわからんのだ、と。坂口安吾は更に進んで「親があっても、子が育つんだ」と言った(不良少年とキリスト)。親に邪魔をされてなお子どもは育つものだというが、往々にして親が子どもをゆがめる存在であることは間違いがない。まあ、邪魔であること自体が成長を促す場合もあるだろうけれど。
「子の連れ去りに関するハーグ条約」というものを最近日本が批准した。16歳未満の子の国外への連れ去りに関する条約で、最高裁での判決が出たのだが、この条約は子自身の意思を考慮しない点が特徴的だ。子どもの最善の利益は両親の双方と交流を持つことだというのがあらかじめ決定されている。親の仕事なんてものは、子どもを飢えさせないこと、うべくんば健康を保てるようにすること――それに尽きると思うのだが、条約はそういう観点から作られたわけではなく、子は親の付属物である、という強固な信念の産物のようだ。うーむ。人の子は不幸だね。鳥の子であれば自分で飛べるようになったら親との縁はそれまでだし、昆虫の子など最初からすべて一人で何とかするわけだが。
子の出国に当たって夫婦間に問題を残したままでは後でもめることはいうまでもなく、防止のために取り決めをすることは悪いこととばかりは言い切れないが……。人間というのはすべて未熟なものではあるが、ある年齢で線引きをして、そこから上は法的な主体として認める――というのが法律的な人間の扱いだが、本人の利益に深く関わることについてはそのラインに満たない年齢であるとしても、部分的には主体として認めるべきではないのか。いずれにせよ人間は未熟であり、自分自身にとっても何が本当の利益なのかなど分かりっこないのだから、せめて決定には自分の意思が尊重されたと感じられることが大事なのだ。

古い政治家

そういえば今度の選挙で亀井静香さんが引退するとのこと。警察官僚出身の典型的な族議員だったが、それなりに印象的なエピソードのある人ではあった。
死刑廃止論者だったのはよく知られている。警察官僚として冤罪をゼロにはできないことを骨身にしみて知っていたのだろう。表現の自由に対しても、内心の自由にかかわるものとして規制に批判的だった。議員会館の部屋にゲバラのポスターを張っていたというから、ロマンチストでもあったのだろう。二風谷ダムの建設差し止め訴訟で国が実質敗訴した際(ダムの建設自体は事情判決の法理で執行されたが)、国の控訴を断念させたのは亀井さんだったという。これはアイヌとして国会議員になった萱野茂さんの発言だから間違いないだろう。萱野さんのところに電話があり「控訴をやめてくれ」と言ったら「分かった、二人で決めよう」という話になった、とのこと。
まあ、昭和の名残をとどめた自民党政治家ではあり、自ら投票したいタイプの人では決してなかったが、昔の政治家にはこの程度の陰影はあったということ。ひるがえって今の自民党の政治家はどうか。

民主主義の機能不全

分断というものが世界中に蔓延しているとすれば、ここ日本でもそれは例外ではない。枝野幸男さんに対するツイッターの反応を見ているとそう思う。
枝野さんの東京などでの一部への人気は大したもので、演説を聞いて泣いてしまった、というようなエピソードも枚挙にいとまがないくらい。その一方で、枝野さんや菅直人元首相のせいで、東日本大震災の対応が遅れた、というようなことを言う人もいまだにいる。安倍晋三さんや菅義偉さんだって大したことはできないだろう、とは思うし、そもそもそうした批判をぶつける人が、当時何をしていたのかは疑問だが、言うだけなら自由だとは思うからそれをとがめるつもりはない。ただ、こうした認識のギャップはどこから生まれるのだろう、とは思う。同じように日本で生まれ育っている人が大半だと思うのだが。
さきの民主党政権や枝野さんのような人を批判して安倍自民党を持ち上げる人は、国家に頼る度合いがむしろ高いのだろうな、とは思う。自己責任の世の中づくりを推し進める政治家にこそ頼る人間が多いという逆説がある。そうした人は民主党政権の失敗を言うけれども、安倍政権も失敗し続けているようにしか見えないのだが。失業率の低下は労働力人口の減少によるものだし、給料は上がらないし、アベノミクスの金融政策は失敗しているし、北朝鮮は過激化するし。仲良しな外国の政治家は、強権型のトランプ、プーチンエルドアン――問題だらけ、ではないのか。上がったのは株価だけ。一般の人には何も良いことがなかった。逆に民主党政権の間、具体的に困ったことなど、私は何一つなかった。
まあ一方で、枝野さんの演説を聞いて、普通のことを言っている、というのに感動すること自体が現在の政治の異常さを示すものか。国民が政治家に虐げられるのを喜ぶ国になってしまっているのだから、選挙もなかなかむずかしい。立憲民主党も、東京と北海道ぐらいはまだ何とかなるかもしれないが、西日本は厳しいだろう。自民党創価学会という最悪の集票マシンに対抗するのは、ことほどさように難しい。野党共闘をぶち壊した前原誠司さんの罪はつくづく重いのだが、そもそも小選挙区制度に無理があるのだろう。死票の多いこの制度を何とかして変えられないものか。

立憲民主党

というわけで立憲民主党
枝野幸男さんの会見は悲壮感が漂っていてなかなか良かった。仲間に裏切られて追い詰められ、同様に窮地に立たされた仲間のことも慮り、やむを得ずして立つ。あれを見たら前原さんは完全に悪者ですね。まあ、悪者というか愚か者というか。
しかしいかんせん候補者が足りない。今日の時点で50くらいはめどが立ったようだが、正直100は欲しい。せめて80。どうなりますことか。