イスラム国とアメリカと

どんなに尖鋭的な集団でも規模が拡大すれば切っ先は鈍くなる。しかしイスラム国が、イラクとシリアのそれぞれ半分ずつの広さにまで勢力を拡大しながらも、いまだに過激でいられるのは、その攻撃的な意志を支える高揚感があるからだろう。それは、西洋中心で進んできた近代史を書き換えているという意識ではないか。
日本人には既視感がある。太平洋戦争開戦時。1941年12月8日。それまで中国との戦争に批判的だった知識人でさえも、対米開戦には一種の高揚感を持った。西洋に対して東洋が戦いを挑んだのだと。西洋近代による世界支配に対し、東洋が初めて異議を申し立てたのだと。今のイスラム国にも似たような雰囲気を感じ、それゆえに私はどうも、イスラム国に対して否定的になりきれない。やっていることは残酷だし、全く嫌悪すべき振る舞いなのだが。
日本には実のところ、その「異議申し立て」をするほどの内実が無かったのだということが追い追い明らかになってゆく。物質文明においては西洋のコピーでしかありえず、それ以外の面において他民族を説得できるほどの豊かさを持っていたわけでもない。結局、天皇制以外に日本がいただくことのできるものはなく、それは全く日本ローカルなもので、東洋の他国にまで押しつけることはできなかった。
この空虚さをを何とかしなければ、ということで作家やら学者やらが集まって話をしたのが座談会「近代の超克」。結局何も生まなかったが、その西洋近代に対する割り切れない気持ちは戦後も脈々と受け継がれており、内山節や内田樹のような人にあっても近代批判を読み取ることは容易だ。現在はグローバリズムや金融資本主義への批判の形を取ることが多いようだが。
さてイスラム国。イスラム国にはかつての大日本帝国と異なり、ちゃんと頼るべきよすががある。アラーである。神の教えを実現するために戦うのだから迷いがない。自分たちの内実を振り返って、世界を支配する資格があるのかどうかなどと問う必要もない。しかも戒律に従う生活は生に充実を与えてくれることだろう。おまけに戦う相手は無法だ。イスラム国のやっていることも無法だと思うが、シリアのアサド政権も、イラクのマリキ前政権も、イスラエルも、アメリカも、さんざん無法なことをしてきている。戦う理由は十二分にそろっている。しかも油田を支配して金まである。戦闘員も外国から流入する。これを制圧するのが容易でないことぐらい、容易に想像がつく。
オバマ大統領はイスラム国を完全に破壊すると言った。テロリストからアメリカへの攻撃を防ぐために、と。しかし攻撃を強めるほどに、アメリカへの恨みも募るだろう。その結果としてテロリストがアメリカを狙うリスクを考えると、結果として何がアメリカにとっても利益なのか。爆弾落とせばそれだけもうかる人がいる、というだけの話とすればどうにもやりきれない。