硝子体手術を受ける

黄斑円孔の治療のため、硝子体手術を受けた。

黄斑円孔になる

黄斑円孔は網膜の中心部(黄斑)に小さな穴が開く症状。こちらに詳しく書かれているが、まあ原因らしい原因といえば加齢ぐらいなもののよう。個人的には15年前にやったぶどう膜炎の影響で網膜がへたっているからかな、とは思うが、医師に聞いてもそれが原因だとはっきり言うことはなさそう。ああなればこうなる、という固定的な因果関係がない限り、軽々しく「これが原因だ」などと言うべきでないというのはよくわかる。せいぜい「影響はあるかもしれません」というぐらいか。

黄斑円孔の硝子体手術では、眼球の中の硝子体を取り除いた後、網膜の穴を塞ぎ、網膜を一定期間押さえるためのガスを注入、縫合しておしまい。ガスで網膜を固定する必要上、一定期間、顔を下向きにして、眼球内でガスが上に来るようにしなければならない。(硝子体手術をすると1年以内に白内障も起きるとのことで、一緒に白内障の手術も受けたが、これはついで)

5日間の入院

ブログには日付が出るが、これを書いているのが火曜日。前週の木曜日に入院、金曜日に手術を受けて、月曜日に退院した。入院5日間。下向き推奨期間は手術当日から入院終わりまで。もっとも、食事は術後すぐからOKで、といれも術後2時間うつぶせになった後はOK、手術の2日後からは頭を洗うのも解禁、夜には横向きに寝ることも許可されたので、あまり厳しくはなかった。下向き期間については、ネットで見る限り2時間~1週間ぐらいの幅があり、治療者側の考え方でかなり差が出そうな印象。ネットで見かけた論文では数時間でも数日でも成績に差は出ないようなので、患者としては負担の小さい方がよいと思う。やはり連日うつ伏せで寝るのは大変なので。

手術当日

手術は午前10時開始予定だったのが若干押して、実際に始まったのは10時15分くらいか。終わったのは12時少し前。90分程度が予定されていたので予定通り。途中でトイレに行きたくならないか心配だったが、開始が押した分、改めてトイレに行く余裕ができたのは助かったといえば助かった。

手術はまず白内障の手術から。これは麻酔も点眼のみで、体感として15~20分程度、眼球の表面をこちゃこちゃしているうちに終わった感じだったが、そこからが長かった。改めて目に針を刺して麻酔をかけ(点眼麻酔が効いているためか、この注射は意外に痛くなかった)、目の中をほじくる。ほじくるという言い方はなんだが、実際はこんなふうに細長いあれこれを挿して、古い硝子体を取り除き網膜を直していたはず。局所麻酔なので意識はあるし、施術中の目は開けているので、何かしているのは見えるわけですが。何か黒いモヤモヤしたものを吸いとるところ(古い網膜上皮らしい)、青い何かを注入するところ(後で聞いたところでは染色液とのこと)、小さなピンセットがチョンチョンと何かをつまもうとしているところが見えたのを覚えている。

そのあれこれを抜き、最後は縫合して終わり、なのだが縫合のころにはもう結構痛かった。「もうすぐ終わりですからね」とドクターも声掛けをしてくれていたので我慢することにしたが、目を圧迫しながら救うように反理を挿して縫う感じは、もう一度味わうのはちょっとためらわれる……でももう一眼にも出る場合はあるようなので、覚悟は必要か。

ともあれ手術は予定通り滞りなく終了。手術後なので車椅子で病室に連れ戻されたらちょうどお昼ご飯の時間。看護師さんは「食べられますか?」とは聞いたけれども食べるときに何か注意が必要とは言わず、私も普通にご飯を食べたのだった。手術を受けた目は眼帯をつけており、まだ麻酔も残っているので、何も見えず痛みもさほど感じず。昼食後はとりあえず、2時間はうつぶせで安静という指示に従って昼寝することにした。(たぶん続きます)

柳生忍法帖(続)

前回(続く)と書いてから半年たってしまいましたが、配役も発表されたし何か書いておけという声ももらいましたし(家の中からですが)、仕事の原稿をうっちゃって先の続きを書いておくことにいたします。とりあえず配役込みのあらすじ(脚本がどうなるかは知るよしもないので、原作に沿ったもの)と、登場人物紹介くらいは必要でしょうか。生徒さんの名前は敬称略で。

 

原作のあらすじ

時は寛永19年(1642年)、会津藩主の主君・加藤明成(輝咲玲央)の悪逆ぶりを見かねて、重臣・堀主水(美稀千種)とその家来は加藤家を退転。堀家の男は高野山に、女は鎌倉・東慶寺にて出家することにしたのですが、明成はもちろん激おこ。家臣に命じて高野山から男どもを引っ張り出して連行。江戸へ連れ帰る途上、東慶寺にて女どもと会わせることに。むろん温情からではなく、女たちを目の前でなぶり殺しにして男どもをなお苦しめようという魂胆です。ひどい。

 

その実動部隊が会津七本槍。後が面倒なので一通り書いておくと

漆戸虹七郎(瀬央ゆりあ)剣の達人
具足丈之進(漣レイラ)犬遣い。犬(天丸=瑠璃花夏、地丸=星咲希、風丸=綾音美蘭)
司馬一眼房(ひろ香祐)鞭遣い
鷲ノ巣廉助(綺城ひか理)怪力の大男、拳法の達人
平賀孫兵衛(天華えま)槍の達人
香炉銀四郎(極美慎)網を操る美少年
大道寺鉄斎(碧海さりお)鎖鎌遣い

会津は事情が複雑で、加藤家の前の豊臣時代には蒲生家が治めていたのですがその前の芦名家の地侍(芦名衆)がまだ残っており、それが加藤家に仕官したのが会津七本槍という設定です。

 

30人ばかりいた女たちを片端から殺し、残ったのが7人。堀主水の娘、お千絵(小桜ほのか)ほか、お圭(音波みのり)、お品(紫月音寧)、お沙和(夢妃杏瑠)、さくら(紫りら)、お鳥(音咲いつき)、お笛(澪乃桜季)。この7人も殺してくれようと会津七本槍が仕掛けたところに現れた駕籠。乗っていいたのは将軍・家光の姉、千姫さま(白妙なつ)で、夫であった豊臣秀頼の娘、天秀尼(有沙瞳)が住持を務める東慶寺を訪ねてきたのでした。女どもを殺すなら堀の男どもを解き放つ、と逆に脅す千姫会津七本槍らは引き下がったのでしたが、のちに男どもは江戸で惨殺されたとの報が伝わる。

 

後日、千姫さまに呼ばれて沢庵宗彭(天寿光希)とともに東慶寺を訪れたのは我らが柳生十兵衛(礼真琴)。堀の娘らに手を貸して、敵討ちの手助けをせよという頼みに「面白い」と言い放ち引き受け、女たちを一通り鍛え上げる。江戸に来た女たちは、七本槍のうち3人(具足丈之進、平賀孫兵衛、大道寺鉄斎)を討つが、明成は今度は七本槍が頼りにならんといってまた激おこ。会津に帰ってしまう。実は参勤交代で帰っていてよかったものを、江戸に居座っていたのでした。

 

明成を追って会津へ向かう十兵衛と沢庵の道連れは堀の女7人に加えて、僧7人(多聞坊=天飛華音ほか)。僧の犠牲を出しつつも道中でさらに1人(鷲ノ巣廉助)を討って会津に着く。会津で明成を待っていたのは芦名衆の元締である芦名銅伯(愛月ひかる)と、その娘で明成の側室ゆら(舞空瞳)。芦名銅伯は不死身の術を使う(原作ではもう少し面倒くさい話ですが、もうこれでよいでしょう)108歳の老人で、黒衣の宰相・南光坊天海の双子の兄弟という(天海の出自は不明で芦名家の出という説もあるらしい。明智光秀説と似たようなものでしょうが)。

 

十兵衛は銅伯と立ち会い、不死身の体の前に敗れるが、さらに十兵衛を襲う七本槍をゆらが止める。ただ殺すのはもったいない、と言いつつも、ゆらはこの時点でもう十兵衛を気に入ってしまったわけです。さすがトップさま――と、ここまででようやく主な人物が出そろいました。

 

最終的には芦名銅伯も倒れ、十兵衛が七本槍で残った1人の漆戸虹七郎との一騎打ちに勝ち、堀の女たちは敵を討ち果たして加藤家はお取り潰しで万々歳ということに。問題はゆらと十兵衛ですか。トップコンビがどうなるか。まあ原作を読めばわかることですが……。そのへんを含めなかなか難しいところが多いのですが、大野先生がどう説明するのか。私が脚本を書く人でなくてよかったなあとは思います。

疲れてしまいましたので登場人物紹介はまた今度……。

宝塚で「柳生忍法帖」とは!

「ロミジュリ」の次の星組大劇場公演が「柳生忍法帖」になったと聞いて、正直なところ「えー、正気か……」とは思いました。大野先生、大丈夫か。

 

難しい舞台設定
これは一部で既に言われるように「山田風太郎の原作が不適切だから」というわけではなく、単に時代設定とかが難しいのです。戦国と太平のはざまである江戸初期の不安定な主従関係が背景に、とか言っても多くの人には何のこっちゃでしょう。

主な舞台になるのも会津ですし。保科や松平になってからじゃないですよ。加藤家ですよ。加藤嘉明といえば、豊臣秀吉の家来「賤ケ岳の七本槍」の一人で、まるで無名の人というわけではありませんが、七本槍で加藤と言ったら普通の人は「清正」しか思い浮かばんでしょう(見てませんが「美しき生涯」を見ている人なら大丈夫なんですかね)。

とはいえ加藤家会津藩の二代目、加藤明成という人が敵役。この人がだいぶむちゃな殿様だったようで、これを諫めて主従の縁を切った家臣どもを惨殺したわけです。その娘たちの敵討ちを助けようと、縁が生じた将軍家の姉君・千姫さまと沢庵和尚から依頼を受けるのが柳生十兵衛・礼真琴さまということになります。しかしこの前は「夢現無双」に出てきたと思ったらまた出てきましたね、沢庵和尚。公演に出てくるのかは存じませんが……。

主人公は柳生十兵衛
さて、しかし「柳生十兵衛って誰?」という人もいるかもしれません。一言でいえば剣豪ですね。これも「夢現無双」に出てきた柳生石舟斎のお孫さん。十兵衛のおとっつぁんの柳生宗矩は一所懸命徳川に仕えて、どうにか将軍家の兵法指南役と1万石の大名の座を手にしましたが、嫡男の十兵衛はそんなことお構いなし。三代将軍・家光さまのお怒りを受けてしばらく放浪していたとのこと。松平伊豆守(「メサイア」で出てきましたな)の密偵だったなどとも言われていますが、事績が伝わっているわけでもないので創作され放題。「柳生忍法帖」は時期からいうと放浪時代より後のはずですが、勝手気ままに振る舞うイメージそのままに描かれています。

まあ、現在において柳生十兵衛をイメージするとしたら千葉真一と考えるのが常識的でしょう。「魔界転生」は見たことのある人も多いかもしれませんが、そのイメージで差し支えありません。眼帯をしたいかつい大男で強そう。しかし、これをこっちゃんがやるのか……という時点でまず頭が痛いのですが、どうするんだろう大野先生。

ともあれ、大枠を押さえると。
・時代は江戸の初め
・舞台は江戸と会津(とその間の道中)
・主人公は柳生十兵衛
・十兵衛は、娘たちが敵討ちをするのを手伝う
という感じ。ざーっくり言うと、こういうお話ということです。

「そのへんはどうなの?」
しかし宝塚的関心を踏まえながら山田風太郎(以下、山風)作品を説明するのは難しいですね。Q&Aにしてみましょうか。

Q:ヒロインはいるの?
A:いません。
  女性はけっこう出てきます。上述の千姫さま、その養女で東慶寺の住持だった天秀尼、敵討ちの中心である、家臣(堀家)の娘たちが7人。あとは敵役の加藤家の妾のお由羅。通常なら堀家の娘(名前を失念)が娘役トップの役かなあ、とは思いますが、この人、十兵衛との絡みがあんまりないのですよね。それに十兵衛はとにかく皆にほれられ、でも女人には関心がなくて、という人柄なので何も起こりようがない。ただ、お由羅は敵側ながら十兵衛の味方になる人で、感情的に一番関わりが深いのは実はそこかもしれません。どうするんだ大野先生。

Q:エログロなんじゃないの?
A:原作には裸や血まみれも出てきますが、なくても話は成立します。
  裸の女体を体にまとって戦おうとする大男(なんだそりゃ)とか出てきますが、基本的にはエロやグロは存在感が薄いです。柳生忍法帖の映像化はもしかするとエログロ基調に仕上げているかもしれませんが、それは単にそうしないと売れないからで。そもそも原作のエログロ描写は嫌らしい部分が少なく、特に主人公の十兵衛や堀家の娘たちについては、汚れ仕事がほとんどない。要するに話の筋立てに絡むエログロはないに等しいので演出でどうとでもなるでしょうけれど、大丈夫か大野先生。
  
Q:男役の役はあるの?
A:あります。
  敵役の加藤明成に「会津七本槍」という家来がおり、これが実動部隊。人殺しの実行犯で、えらく強い。だからこそ、これと戦うために十兵衛が助っ人を頼まれたというのが筋立ての真ん中です。剣士やら大男やら犬使いやら、細かいことは忘れましたがとにかく7人は間違いなく役がある(時間がないので減らすかもしれないけれど)。ほかに加藤家の黒幕に芦名銅伯という妖怪みたいなジジイ(徳川家の天海僧正―「あまみ」じゃないよ―と双子という設定)がおり、沢庵和尚とその弟子たち(十兵衛と一緒に敵討ちを手伝う)がいますが、弟子たちまでは手が回らないのではないかしら。しかし二番手は何をやるのかな。加藤明成か、会津方の剣士か。それとも大野先生が何かでっち上げるのかしらん。

(続く)

正しさは十分、しかし正しさだけでは足りない

斎藤幸平『人新世の「資本論」』(集英社新書)を読む。ざっくり言うと、地球温暖化による危機を、資本主義を退場させることによって乗り越えようという話だ。そこまでしなくても資本主義の暴走を防ぎながら技術革新に投資すれば何とかなるのではないか、という議論に対しても斎藤は手厳しい。記憶に残ったのは下記のような指摘。

気候ケインズ主義の訴えは、魅惑的に聞こえるかもしれない。だが、それは、自分たちの帝国的生活様式を変えることなく――つまり、自分たちはなにもせずとも――気候ケインズ主義が持続可能な未来を約束してくれるからだ。

帝国的生活様式とは汚染や破局を周縁に押しつけて、自分は中心で快適にぬくぬくと過ごすというイメージか。要するに今の快適な生活を手放したくないがために、技術革新で何とかできるという言葉に飛びついて無為や怠惰の口実とするわけだ。

   ◆

同じ頃に読んでいた『ゲンロン11』(ゲンロン)の東浩紀の論考(「悪の愚かさについて2、あるいは原発事故と中動態の記憶」)で紹介していたジャン=ピエール・デュピュイの議論がこれと結びつく。

破局は一度起きてしまえば、まるでそれが事物の通常の秩序であるかのように見えてしまう」が、「破局はそれが現実のものとなる前には、起こりうるものとは思われない」。

 破局のこの性格は、それを阻止するにあたり、原因から結果を予測してリスクを回避する、常識的で合理的な思考が役にたたないことを意味している。(中略)破局を避けるためには、破局を避けることができると考えてはならない。なぜならば、破局を避けることができる、つまり、自分たちのこれからの行動が破局が来るか来ないかを決めるのだと考えた瞬間に、ぼくたちは、原因と結果の連関を組み立て、リスクを「計算」し、破局の発生可能性はほとんどないので行動は変えなくてよいと判断を下してしまうからである。(中略)

 破局を避けるためには、破局を避けることができると信じてはならない。未来を変えるためには、未来は変えることができると信じてはならない。

 引用が長くなった。人間というものは本当に足元に火が付くまで、それまでのやり方を変えることなどできないのだということを突きつけられているように思う。これに対処するためにはどう考えるべきか。デュピュイの議論をまとめるように東は言う。

 デュピュイはそのような事例に対処するためには、最悪の未来は既に決まっており、確率にかかわらず必ず起こるのだと、あえて非合理的な想定を採用する方が結果的に合理的なはずだと主張しているのだ。これはきわめて具体的な提言である。

破局を避けるためには、破局が起こってしまった未来から過去へさかのぼる形で「もしこのような選択がなされていたならば破局は起きなかったかもしれない」と想像して物語を編み直さなければならないということか。東の直接の対象はチェルノブイリであり、福島であり、またナチスであり731部隊であり――で、これから起きる破局地球温暖化)ではないが、示唆に富む。

『人新世の「資本論」』における斎藤の議論は分かりやすく、説得力がある。近年の世界的な異常気象――シベリアの高温、オーストラリアや北米西部の森林火災など――を伝え聞くにつけても、何か良くないことが起きていることは感じられる。そもそも気候の変動が比較的穏やかな日本においてすら、台風や豪雨の被害が近年増大していることを温暖化と結びつけずに考えるのは難しいだろう。

ただし、それでもなお、人の心を揺り動かして行動へ駆り立てるには足りないと感じる。私たちはもっと、破局の重みを自分のものとして抱きかかえねばならず、そこからさかのぼって、破局に至らない歩みを想像しなければならない。ここで求められているのは科学だけではない。必要なのは文学ではないか。

新型コロナと医療に期待すべきこと

新型コロナウイルスが蔓延している。単に流行しているというだけでなく、私たちの生活を強い力で制約しているのだから席捲していると言ってもいい。

危惧されているのは医療崩壊。医師や看護師に感染者が増えて医療体制を維持できなくなることが危ぶまれている。人々の医療への期待がかくも大きいことと、ワクチンのない感染症に対しては現代社会もこれほどにもろいということに驚く。

新型コロナが怖いかというと、どうもピンとこない。同居家族にハイリスク層がいないせいもあるだろう。マスクをしなければならなくなったことや、外でうっかり何かにむせたりすると眉をひそめられたりすることの方がよほどつらい。何より、感染対策と称して人が簡単に自由を放り捨てたことがつらい。

夜出歩くな、酒場に行くな、人と会うな――感染を防ぐためといえばもっともらしいが、そうした細部の営みこそが人生であって、それ抜きに命を永らえることにどれほどの意味があるのか。一時の我慢というかもしれないが、人の命などいつ終わるか分からない。人生を放棄してそのまま死ぬことになるなら、その時の無念はいかばかりか。

医療は何をすべきか。人は医療に延命を期待しすぎる。西洋医学機械的な故障を修理する際には素晴らしい効能を発揮するが、原因と結果の因果関係がはっきりしない疾患には役に立たないことが多い。10年以上前に目をわずらったが結局は原因不明のままで、そのこと自体に不満はないのだが、大病院のもっともらしさに比べるとできることはいかにも小さい。

新型コロナのように原因が分かったところで、薬がなければやはり無力に近い。人工呼吸器を付けて自然治癒に俟つ、という方法が患者の選別を招くのだから、医療者に必要なのは医術とは別の、ある意味では非情で機械的な判断力になってしまう。目の前で苦しんでいる人を放ってはおけないという人に自然な惻隠の情を放棄させてはいけないが、そうなると必要なのは患者側の「諦め」ないし「覚悟」ということになる。

医師の役割として「時に癒やし、しばしば和らげ、常に慰む」という言葉がある。そうあるべきだと思うし、人は医療にそれ以上を期待すべきでもない。江戸時代までは人間の死というのはもう少し身近なもので、一般人も人間は遅かれ早かれ死ぬということをよく知っていた。

まあ医療者が「どうせ死ぬんだし」と思ってしまっては身もフタもないのだが、人の心構えとしては「メメント・モリ」――死を思え、ということを常にどこかに留めておくべきだし、まずは悔いのないように生きるということが、病に備えるということではないのだろうか。

渡辺京二『原発とジャングル』

渡辺京二さんは近代文明に懐疑的ではあるが、でも決して否定的というわけではない。元々は貧乏でもあってろくにものを持つこともなかったが、本の収集にはあらがいがたく、熊本地震では本と本棚に難渋させられたという。その渡辺京二地震後にタクシーに乗ったところ、運転手から「わしゃ部屋にゃ何も置いとらんから倒るるものもありゃせんだった。大体みんな、モノの持ちすぎですバイ。要らんもんまで買いこむもんだから大ごとになる」と言われて一言もなかったという。しかしそれでも「文明をもたらす人間の欲望は、ある限界を設けるべきではあろうが、決して否定してはならぬ性質のものだ。それを否定するなら、都市も家屋も書物も美しい工芸も消失する。文明は持ち重りのするものだ。しかし、それに耐えて保持するに値するものだ」という(「虚無と向きあう」)。

ただし、今の文明は人間の手に負えるものなのか、という疑問は消えない。持ち重りで済めばよいのだが、一旦緩急あるときには人間を押しつぶすものになってはいないか。今回の北海道の地震を見ても、地震そのものが引き起こした危害より、それによる電力停止などのほうが大きいダメージを引き起こしているようだ。当たり前に享受するものが増えるほど、それが失われた時のリスクは大きい。都市機能も、電気もガスも水道も、持ち家も勤務先も、複雑で精巧になるほどリスクは増す。東京はそうしたものを固めてつくった街になってしまったが、実際に何か起こるまでは何も知らないふりをして過ごすだろうか。とりあえず賃貸住宅に住み替える方がマシなのかも――江戸時代の町民は誰も持ち家になど住んでいなかったのだし。

被災列島

大雨、猛暑、大風、地震……とよく続くものだと思わないわけにいかない。東京あたりは奇跡的に無事なので何だかのほほんとしているものの、これはオリンピックにでも合わせて災害の方が手ぐすね引いて待っているのではないかとも思われる。東京にもいずれカタストロフが訪れることは必定だが、その時自分はどうしているだろうか。